昭和の易書アレコレ
- 2022/03/13
- 21:35
オリジナルの自作テキストと言ったところで、経書の解説に純粋独創など在り得ないことだし、もとより庵主は経学者を以て任ずる者ではないから、結局は糊と鋏の仕事に終始する訳だ。
核としたものは自身が経文を学習させて頂いた公田連太郎翁の『易経講話』で、これに昭和の代表的な易書数種を並行して読み進めながら作成している。
具体的には、公田本に加えて今井宇三郎氏の新釈漢文大系本、本田済氏の朝日選書本、鈴木由次郎氏の全釈漢文大系本、加藤大岳氏の大講座の五種であるが、だいたい公田本5、今井本2、残りが其の他諸々といったところだろうか。
公田本は平明でありながら学術的な程度も高いが、恐らくは著者晩年の仕事であることに加え、当初出版を意図していなかったらしい事に起因する杜撰さも散見されるという欠点があり、殊に文字の間違いや読み下しの明かな誤り等も認められる。
また、採用した解釈の出典が記載されていない箇所も少なくなく、その特定には随分苦労させられた(根本通明の『周易講義』を読んで判明した箇所が幾らかあったが、最後まで出典不明の解もある)。
今井本は著者の集大成であるから、恐らく先に挙げた五種の中で一番気合が入っていて、それはもう異常な熱気さえ感じさせるが、恐らく読み下しは最も穏当、解釈も練りに練られているように感じられる。
ただ、以前にも書いたことがあるけれど、公田本に対する対抗心が私には仄見えるし、奇を衒うような解釈が少なくないのが気にならぬでもない。
それに関連する事柄として、書物全体で可能な限り矛盾を生じさせないよう理詰めで各所の字句を統一的に解釈しようと努力しているのは伝統的な経書解釈の一つの原則であるからそれそれで良いのだが、結果解釈に晦渋を生じさせているような感がある。
また、注釈の文字が異常に小さくて老眼泣かせだ。
鈴木本は私の見る所一番癖が少ないような気がする。
その分、公田本や今井本のような個性も希薄かもしれないが、その分安心感があるし、読み下しや採用した古人の注を含めて、公田本に対するリスペクトがあるように思う(この辺りは今井本とは正反対な印象)。
恐らく五種の中で最も発行部数が多く、一番読まれていると思われる本田本は併読してみると、残念ながら世評ほどには大した書物には思われない。
昔は感心して読んだ記憶があるのだが、やはり再読によって評価が高まる本とそうでない本とがあるようだ。
一番書物としての規模が小さいことにも起因していようが、読んでもサッパリ意味がつかめない箇所が多いのは頂けない。
また、同著者の程氏易伝講義も中々評判が宜しいようだが、私にはそれほどのものだとは思われなかった。
勿論、程氏易伝を読み切った本邦唯一の解説書であるから、値打ちがない訳ではないのだが少なくとも今回講座テキストを作成するに当たって参考になった箇所はごく一部にとどまる。
お世辞にも校正が行き届いているとは言いかねるのも減点ポイント。
何度か御宅訪問もしたことがあるのだが、どうも本田先生との相性が今一つ良くないのかもしれない(ただし最近講談社学術文庫に入った元サーラ叢書の『易学』は最高に面白い)。
大岳易のバイブルとされる『易学大講座』は少し前にも取り上げているが、経書解説という面から見ると或る意味では本田本より簡潔に過ぎる箇所が多々あって、やはり此の本の値打ちはそれぞれの卦爻に附された「占考」の部分であるようだ。
これまで中々イメージが掴めなかったところが寧ろ此の「占考」の箇所を読むことで氷解したという経験があるのは先に書いた通り。
他に昭和の易書として恐らくは本田本以上の読者を持つと思われる岩波文庫所収の高田本や中国古典文学大系の赤塚本などもあるけれど、高田本は簡潔過ぎるし、赤塚本は抑々読み下しがなく現代語訳に簡単な注が附してあるのみで先の五冊に並べるほどのものとは思われない為、取り敢えず除外してある。
この他戦前にまで遡れば、国訳漢文大成の宇野哲人本や加藤本とよく似たタイトルの小林一郎『易経大講座』などがあるが、これらは図書館で少し手に取ってパラパラ眺め見ただけで、私には論評する資格がない。
ただ、これらの本の評判を殆ど見聞きしないので、さして重視しなくても良いように思われたのは事実である。
なお、今回主とした参考にした五冊を挙げたが、それ以外に参考にした論文(単行本未収録の意)も数知れない。
離為火六二の「黄離」がチョウセンウグイスを指すとする説などは私には正鵠を射たもののように感じられるが、一般には殆ど知られていないものだと思う。
核としたものは自身が経文を学習させて頂いた公田連太郎翁の『易経講話』で、これに昭和の代表的な易書数種を並行して読み進めながら作成している。
具体的には、公田本に加えて今井宇三郎氏の新釈漢文大系本、本田済氏の朝日選書本、鈴木由次郎氏の全釈漢文大系本、加藤大岳氏の大講座の五種であるが、だいたい公田本5、今井本2、残りが其の他諸々といったところだろうか。
公田本は平明でありながら学術的な程度も高いが、恐らくは著者晩年の仕事であることに加え、当初出版を意図していなかったらしい事に起因する杜撰さも散見されるという欠点があり、殊に文字の間違いや読み下しの明かな誤り等も認められる。
また、採用した解釈の出典が記載されていない箇所も少なくなく、その特定には随分苦労させられた(根本通明の『周易講義』を読んで判明した箇所が幾らかあったが、最後まで出典不明の解もある)。
今井本は著者の集大成であるから、恐らく先に挙げた五種の中で一番気合が入っていて、それはもう異常な熱気さえ感じさせるが、恐らく読み下しは最も穏当、解釈も練りに練られているように感じられる。
ただ、以前にも書いたことがあるけれど、公田本に対する対抗心が私には仄見えるし、奇を衒うような解釈が少なくないのが気にならぬでもない。
それに関連する事柄として、書物全体で可能な限り矛盾を生じさせないよう理詰めで各所の字句を統一的に解釈しようと努力しているのは伝統的な経書解釈の一つの原則であるからそれそれで良いのだが、結果解釈に晦渋を生じさせているような感がある。
また、注釈の文字が異常に小さくて老眼泣かせだ。
鈴木本は私の見る所一番癖が少ないような気がする。
その分、公田本や今井本のような個性も希薄かもしれないが、その分安心感があるし、読み下しや採用した古人の注を含めて、公田本に対するリスペクトがあるように思う(この辺りは今井本とは正反対な印象)。
恐らく五種の中で最も発行部数が多く、一番読まれていると思われる本田本は併読してみると、残念ながら世評ほどには大した書物には思われない。
昔は感心して読んだ記憶があるのだが、やはり再読によって評価が高まる本とそうでない本とがあるようだ。
一番書物としての規模が小さいことにも起因していようが、読んでもサッパリ意味がつかめない箇所が多いのは頂けない。
また、同著者の程氏易伝講義も中々評判が宜しいようだが、私にはそれほどのものだとは思われなかった。
勿論、程氏易伝を読み切った本邦唯一の解説書であるから、値打ちがない訳ではないのだが少なくとも今回講座テキストを作成するに当たって参考になった箇所はごく一部にとどまる。
お世辞にも校正が行き届いているとは言いかねるのも減点ポイント。
何度か御宅訪問もしたことがあるのだが、どうも本田先生との相性が今一つ良くないのかもしれない(ただし最近講談社学術文庫に入った元サーラ叢書の『易学』は最高に面白い)。
大岳易のバイブルとされる『易学大講座』は少し前にも取り上げているが、経書解説という面から見ると或る意味では本田本より簡潔に過ぎる箇所が多々あって、やはり此の本の値打ちはそれぞれの卦爻に附された「占考」の部分であるようだ。
これまで中々イメージが掴めなかったところが寧ろ此の「占考」の箇所を読むことで氷解したという経験があるのは先に書いた通り。
他に昭和の易書として恐らくは本田本以上の読者を持つと思われる岩波文庫所収の高田本や中国古典文学大系の赤塚本などもあるけれど、高田本は簡潔過ぎるし、赤塚本は抑々読み下しがなく現代語訳に簡単な注が附してあるのみで先の五冊に並べるほどのものとは思われない為、取り敢えず除外してある。
この他戦前にまで遡れば、国訳漢文大成の宇野哲人本や加藤本とよく似たタイトルの小林一郎『易経大講座』などがあるが、これらは図書館で少し手に取ってパラパラ眺め見ただけで、私には論評する資格がない。
ただ、これらの本の評判を殆ど見聞きしないので、さして重視しなくても良いように思われたのは事実である。
なお、今回主とした参考にした五冊を挙げたが、それ以外に参考にした論文(単行本未収録の意)も数知れない。
離為火六二の「黄離」がチョウセンウグイスを指すとする説などは私には正鵠を射たもののように感じられるが、一般には殆ど知られていないものだと思う。
スポンサーサイト