『易経』三浦國雄訳注
- 2022/03/15
- 19:15
昭和には多くの優れた『易経』注釈書が著わされているが、トリを飾るのは三浦國雄氏の訳注であろう。
1988年であるから昭和が終わりを告げる直前の刊行で、角川書店の「鑑賞中国の古典シリーズ」全24巻の首巻として刊行されたものだ。
この訳注は、聞一多(1899~1946)や李鏡池(1902~1975)、高亨(1900~1986)といった訓詁派や考古派に属する近代諸家の易説をふんだんに取り入れ、新奇な解釈を試みているところに特色があるが、この立場からのアプローチによる先行書として鈴木由次郎氏の明徳全書本(1964)や赤塚忠氏(1913~1983)の中国古典文学大系本(1972)などがある。
しかし、赤塚本が未だ儒教経典として読むという立場を放棄していないのに対し、三浦本は純粋な卜筮書としての姿を復元することに腐心していて、例えば赤塚本が「孚」「貞」をそれぞれ「誠」「貞正」の意に解しているところを、徹底して「捕虜」「占問」の意に取る(明徳全書本は「孚」は「誠」とするが、「貞」は「占問」と取っている)。
講座のテキストに採り入れなかった理由の一つには、過去の易占例が飽くまでも儒教経典として『易』を解した上で蓄積されて来た為に、疑古的な解釈との間で齟齬を来すことが特に初学者を徒らに混乱させる可能性を恐れるからだが、大胆な試訳を行っていると著者自身が断っている箇所などは矢張り慎重派の自分には殊に不安を覚えるところがあるのは否定できない。
また、文字を改めている箇所が多いのも不安を感じる点の一つである。
もっとも今井本なども通行本の文字を改めている箇所が少なくないけれど、それは飽くまでも『熹平石経』や『経典釈文』などに依っているのに対し、三浦本は疑古的な立場からもっと大胆に文字を改めるのに躊躇しないところがあるようだ。
ただし、この読み方のほうが意味が通り易いと思われる箇所も多々あるので、テキストには反映させないものの、講座の中でもその都度取り入れてみようとは思っている(昨年の個人教授では疑古的な解釈はごく一部をお話するにとどめた)。
本書は新しい部類に入る易書であるが、それでも初版から三十数年が経過し、だんだん古典的気配を漂わせつつあるようで、この本で経文を学んだという人が既に結構出て来ているらしい(たしか奈良場老師もその一人であられたように記憶する)。
スポンサーサイト