東洋学の基礎講座として
- 2022/04/05
- 10:25
昨年の個人教授は所詮知友が相手だったから至って気安いところがあったけれど、今年のオンライン講座は一面識さえ無い方の方が多数派につき、こちらも俄然気合が入らざるを得ない。
勿論、昨年が手を抜いていたという訳ではなくて、寧ろテキストの作成が同時に進行した分、恐らく労働量ないし予習に費やす時間は何分の一かに低下するものと思われ、其の点では大分ラクが出来そうな気はする。
ただし、前回の内容をただ貧しく反芻するだけでは芸が無いし、それでは全然自分自身の勉強にならないので、新ネタの摂取にも余念がないのだけれど、そうして資料を渉猟する中、さる高名な易占家の本を読んで余りの間違いの多さに愕然とした。
まだ存命の方であるし、誰でも知っているようなビッグネームなので敢えて名前は伏せさせて頂くが、その本の前半で述べられている『易経』概論は目も当てられない位に酷い内容なのである。
その原因は一言で云えば中国文化に対する理解が余りにも浅薄だからと言うに盡きるが、概論を語れない以上は、正直何も分かっていない御仁という他はない。
確かに、易学家ではなく易占家であるというのなら、学問の方が御粗末であったとして必ずしも咎められるには及ばないという理屈も成り立つ。
しかし、そうであるなら、易の概論を書こう等という大胆なことを試みるべきではない。
実際、私が直接に知遇を得た麻野勝稔先生や御法川百代先生のような名占家は自身の分をわきまえてその様な分野には一切発言をされず、自身はあくまでも実占家であるという態度を変えられることはなかった。
麻野先生は出版の話が何度も持ち上がったが、ついに首を縦に振ることはなかったし、御法川先生は占例さえ発表するのを拒んで居られて、『実占研究』に僅か一頁に満たない小文を寄せられたのが唯一だったと記憶する。
孔子によると「知らないことを知らないと自覚する」のが、本当に「知る」ということなのだという。
孔子の生きた時代というのは世界的に見て精神的偉人の代表格ともいうべき人物が並行して現れた時代に当たり、釈迦やソクラテスも同時代人と言って良いのだが、遠く離れたギリシャの哲人の到達点が「無知の知」であったというのは真に感慨深いものがある。
ところで、よく考えてみれば、易の大家と称する人ですら、易を取り巻く周辺文化に甚だ無理解であるという事実は、我々がそういったものを学ぶ機会に恵まれていないということを意味してもいる。
普通なら間違いだらけの本を書いて大家として崇められるということはない筈だが、読者層も間違いに気が付けないから、そのような現象が起こって来るのに違いない。
とすれば、かかる知識を身に着けることが出来る講座というのは大いに値打ちがあろう。
そこで、昨年の教授でも多少意識はしていたものの、今回のオンライン講座は易学講座であると同時に東洋学の基礎講座にもなっているというような内容にしたいと思っている。
勿論、あくまでも易学講座である以上、そんな本格的なものには出来ないし、東洋学の講座となれば到底一年や二年でこなすこと叶わず、そもそも私自身の学力が及ぶ筈のものではない。
従って、結局はほんのささやかな付け足しに終始することになる訳だが、そんな程度のものでさえ、あるのと無いのとでは大違いだろう。
乞うご期待。
勿論、昨年が手を抜いていたという訳ではなくて、寧ろテキストの作成が同時に進行した分、恐らく労働量ないし予習に費やす時間は何分の一かに低下するものと思われ、其の点では大分ラクが出来そうな気はする。
ただし、前回の内容をただ貧しく反芻するだけでは芸が無いし、それでは全然自分自身の勉強にならないので、新ネタの摂取にも余念がないのだけれど、そうして資料を渉猟する中、さる高名な易占家の本を読んで余りの間違いの多さに愕然とした。
まだ存命の方であるし、誰でも知っているようなビッグネームなので敢えて名前は伏せさせて頂くが、その本の前半で述べられている『易経』概論は目も当てられない位に酷い内容なのである。
その原因は一言で云えば中国文化に対する理解が余りにも浅薄だからと言うに盡きるが、概論を語れない以上は、正直何も分かっていない御仁という他はない。
確かに、易学家ではなく易占家であるというのなら、学問の方が御粗末であったとして必ずしも咎められるには及ばないという理屈も成り立つ。
しかし、そうであるなら、易の概論を書こう等という大胆なことを試みるべきではない。
実際、私が直接に知遇を得た麻野勝稔先生や御法川百代先生のような名占家は自身の分をわきまえてその様な分野には一切発言をされず、自身はあくまでも実占家であるという態度を変えられることはなかった。
麻野先生は出版の話が何度も持ち上がったが、ついに首を縦に振ることはなかったし、御法川先生は占例さえ発表するのを拒んで居られて、『実占研究』に僅か一頁に満たない小文を寄せられたのが唯一だったと記憶する。
孔子によると「知らないことを知らないと自覚する」のが、本当に「知る」ということなのだという。
孔子の生きた時代というのは世界的に見て精神的偉人の代表格ともいうべき人物が並行して現れた時代に当たり、釈迦やソクラテスも同時代人と言って良いのだが、遠く離れたギリシャの哲人の到達点が「無知の知」であったというのは真に感慨深いものがある。
ところで、よく考えてみれば、易の大家と称する人ですら、易を取り巻く周辺文化に甚だ無理解であるという事実は、我々がそういったものを学ぶ機会に恵まれていないということを意味してもいる。
普通なら間違いだらけの本を書いて大家として崇められるということはない筈だが、読者層も間違いに気が付けないから、そのような現象が起こって来るのに違いない。
とすれば、かかる知識を身に着けることが出来る講座というのは大いに値打ちがあろう。
そこで、昨年の教授でも多少意識はしていたものの、今回のオンライン講座は易学講座であると同時に東洋学の基礎講座にもなっているというような内容にしたいと思っている。
勿論、あくまでも易学講座である以上、そんな本格的なものには出来ないし、東洋学の講座となれば到底一年や二年でこなすこと叶わず、そもそも私自身の学力が及ぶ筈のものではない。
従って、結局はほんのささやかな付け足しに終始することになる訳だが、そんな程度のものでさえ、あるのと無いのとでは大違いだろう。
乞うご期待。
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