先日の記事に書いた某易の大家は、プロフィールを拝見するに中々華麗な経歴の持ち主であるらしく、色々有名な先生に師事なさっているようだ。
成程、これでは本人が大家と錯覚するのも、それこそ“大過”ではないのやも知れぬ。
しかし、こういう人を見ていて実感するのは、エラい人に習ったからといってエラい人になれるとは限らないという至極当たり前の事柄で、私がイチローに習ったからといって野球選手になれないのと同じである。
ところが、自分の御粗末な実力を薄々恥じているような人に限って、虎の威を借る狐を地で行くような振舞に及ぶことが少なくないようだ。
『易』などは儒家によって修身の書としても読まれているが、いくら読んでも修身などと縁遠いのはむなしい限りである。
ところで、エラい人に習ったからといってエラい人になれる保証が無い反面、エラくない人に習った人は絶対にエラくなれないというのは事実らしい。
そもそも何を以て“エラい”とか“エラくない”と言えるのか、些か不明瞭なところもあって、善悪と同じく或る程度までは相対的なものと言えなくもないにせよ、誰が見てもエラい人とそうでない人とを並べてみれば、これはもう理屈抜きで感覚的に了解出来るものである。
そういう立場で見渡せば、世の中にはエラい人というのは実に少なくて、エラくない人が圧倒的多数派なのは致し方のないところであるが、そのエラくない人の内にあらせられる“エラそうにしてる人”というのは決して少数派とも言えないようだ。
以前読んだ辻雙明(1903~1991)の『禅骨の人々』18頁で、晩年の公田連太郎翁の言葉として以下のような文章がある。
今年の一月、朝日文化賞を贈られた時、来訪の森本記者に語られた言葉の中で、「私の一生は失敗の一生でした。私は田舎者で、無器用で、世渡りの才とてなく、禅僧にもなれず、何の役にも立たず、八十余年、ただグズグズと生きてきただけです。“われは可もなく不可もなし”そう言える偉い人になることだけを夢みて。しかし、それは叶わぬでしょう。そして間もなく終るでしょう」という公田先生の言葉は、まことに味わい深い。「可もなく不可もない」と言える講座にしたいところだが、些か不遜な言辞というべきか。
そういえば、文壇のドンだった丸谷才一氏が死んで10年になるが、名著『文章読本』の中で、入門書はまず“偉い学者の書いた薄い本”を読むべきで、反対に読むべからざる本は“偉くない学者の書いた厚い本”であるというようなことを言っている。
蒼流庵易学テキストの著者は偉くない素人学者であるかも知れぬが、厚い本ではないから、丸谷氏に“読むべからざる本”と誹られることだけは一先ず避けられそうだ。
ちなみに、某易の大家の著作では入門した或る易者がテキストの分厚さに恐れをなしてすぐさま逃げ出したという武勇伝(?)が得意げに書かれているけれど、恐らくは丸谷氏の云う“読むべからざる本”であったに違いないと庵主は確信している。
或いは此の逃げ出した易者というのは意外に観る眼があったのかもしれない。
スポンサーサイト