質・疑・応・答
- 2022/04/17
- 10:26
もう10年以上前のことであるが、蒼流庵随想のテーマとはまた異なった分野で或る会を主催していた時期があって(私はあくまでも主催者であって講師は別に外部より招聘していた)、参加者諸氏を見ていて悟ったことが幾つかある。
まず第一に、筆記量は実力に反比例するという法則で、熱心にノートを取っている人ほど出来が宜しくない。
これは一見矛盾するような気もするが、いつまで経ってもノートを取りまくっているという人は、過去の内容が丸で頭に入っていない為に常に講義の内容が新鮮なものと映るのかもしれない(其の点では毎度退屈せずに済んで居そうで幾らか羨ましくもあるのだけれど)。
また、どの情報が大事で、どの情報がそうでないかの判別が出来ない為に、全情報を漏れなく記録しておこうとする傾向もあるように思う。
次に気付いたことは、学習者の実力というのは「答え」ではなく、「問い」の方に如実に表れるということである。
習熟度をこちらが図るために投げかける質問というのは、大抵は基本的事項なので、相手の応答はどうしても教科書的なものになりがちであって、それはそれで基本がどれだけ頭に入っているかの確認なのであるから、誰が応じたところで似たような答えとならざるを得ないのは致し方のないことだろう。
しかし、相手から発せられる「問い」には種々様々なものがあって、そこから読み取れるものが実に多い。
大抵レベルの高い人、言い換えれば伸びしろの大きい人は、自分が試みて得られた手応えや感想を此方に確認するという意図での質問を多くする傾向にあるようだ。
例えば、やってみたところが、巷で言われているようなものと手応えが違うように思うが、何かが間違っているのかどうか云々。
逆に、伸びしろの余りない人というのは、本で読んだ情報の真偽を尋ねて来たりすることが多い。
勿論、質問を受けた以上は答えるのが指導者の義務であるけれど、中には2ちゃんねるの情報の真偽に関する質問を連呼するような阿保丸出しクンも居て、その時は私は講師の側でなかったので、ニヤニヤしながら聞いていたが、講師のストレスは中々のものであったろう。
だいたい自分が直接関わっていない人でも、質問の程度を見ていると、どういう指導者に就いて居るのかということさえ、大抵は判ってしまうもので、たとえばマトモな質問を投げかける人というのは、本人のレベルが現段階では然程ではなくとも同じくマトモな指導者に就いて居る、或いは筋のキチンとしたものを学んでいる、というのが普通である。
まず第一に、筆記量は実力に反比例するという法則で、熱心にノートを取っている人ほど出来が宜しくない。
これは一見矛盾するような気もするが、いつまで経ってもノートを取りまくっているという人は、過去の内容が丸で頭に入っていない為に常に講義の内容が新鮮なものと映るのかもしれない(其の点では毎度退屈せずに済んで居そうで幾らか羨ましくもあるのだけれど)。
また、どの情報が大事で、どの情報がそうでないかの判別が出来ない為に、全情報を漏れなく記録しておこうとする傾向もあるように思う。
次に気付いたことは、学習者の実力というのは「答え」ではなく、「問い」の方に如実に表れるということである。
習熟度をこちらが図るために投げかける質問というのは、大抵は基本的事項なので、相手の応答はどうしても教科書的なものになりがちであって、それはそれで基本がどれだけ頭に入っているかの確認なのであるから、誰が応じたところで似たような答えとならざるを得ないのは致し方のないことだろう。
しかし、相手から発せられる「問い」には種々様々なものがあって、そこから読み取れるものが実に多い。
大抵レベルの高い人、言い換えれば伸びしろの大きい人は、自分が試みて得られた手応えや感想を此方に確認するという意図での質問を多くする傾向にあるようだ。
例えば、やってみたところが、巷で言われているようなものと手応えが違うように思うが、何かが間違っているのかどうか云々。
逆に、伸びしろの余りない人というのは、本で読んだ情報の真偽を尋ねて来たりすることが多い。
勿論、質問を受けた以上は答えるのが指導者の義務であるけれど、中には2ちゃんねるの情報の真偽に関する質問を連呼するような阿保丸出しクンも居て、その時は私は講師の側でなかったので、ニヤニヤしながら聞いていたが、講師のストレスは中々のものであったろう。
だいたい自分が直接関わっていない人でも、質問の程度を見ていると、どういう指導者に就いて居るのかということさえ、大抵は判ってしまうもので、たとえばマトモな質問を投げかける人というのは、本人のレベルが現段階では然程ではなくとも同じくマトモな指導者に就いて居る、或いは筋のキチンとしたものを学んでいる、というのが普通である。
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