高島嘉右衛門と水戸学派
- 2013/10/24
- 19:24
私は多年、高嶋嘉右衛門先生の易学の道統に就て疑問を抱いていた。伝説的には、先生が下獄中、自己の運命を回顧し、そこから易道に入ったなどと伝へられるに過ぎなく、余りに根拠の薄弱なのを残念に思っていたのである。然るに偶々(たまたま)水戸学派の儒者詩人の伝記をひもといているうちに始めて発見したので、日本易学史の為に若干の空白を埋めるに足ると思う。
小山春山先生は、下野国真岡の産である。名は朝弘、字は遠士。家世々商業を以て知られた素封家である。春山先生は幼より沈深、大志ありと称せられた。従って家業を厭い、書を読み、道を講じ、就中、蒲生君平・高山彦九郎を心に愛慕し、王室の衰微を慨嘆し、遂に家郷を出て水戸に至り、会沢正志先生の塾に投じ大いに経史を研鑽した。而して藤田東湖・豊田松岡等の名流と交はり、所謂・水戸学を修めた。後、江戸に出で幕府の医官・尾台良作の門を叩いて医術を学び、傍ら藤森天山先生に従って、これよりまた詩人として知られるに至った。
この頃、大老・井伊掃部守に代った安藤対馬守は直弼の遺志を継承して益々天下の志士を窘追したので、春山先生は大いに憤慨し、同志と共に密かに安藤対馬守を害せんと謀った。而してその同志小田彦次郎は対馬守を江戸坂下門に要撃して事成らざるや、春山また捕へられて真岡の獄に下された。文久二年正月二十九日であった。翌月江戸に送られ伝馬町の大牢に投ぜらる。然も春山屈する色なく談笑自若、放吟高歌して自ら慰む。この間、詩数百首を賦して留丹稿という。八月釈放された。
然るに元治元年、武田耕雲斎・藤田小四郎等兵を筑波山に挙ぐるや、もとより春山また与るところあり、筑波の守り潰えて幕吏の捕うるところとなり、江戸佃島の獄に繋がれた。時に高嶋嘉右衛門も亦獄を春山と同うす。嘉右衛門、春山の学徳に深く傾倒し就て易学を切磋すと。即ち高嶋嘉右衛門の易学は小山春山の伝であり、春山の伝は会沢正志であるという学統が判明するのである。
これは些細なことのようで、易学の道統の上からは極めて重大な事実なのである。今日の易者は二三冊も読めば占断に不自由しないが、それは然し正しい易学を把握したという意味ではない。単なる米塩の足しにする易は吾吾の研究の対象ではない。易学を通じて更に広大な視野 ―――― それを歴史的展望と云ってもよいが ―――― を把握する為には、このような学統の価値を先づ認識されなければならないのである。
然らば水戸学に於ける易学は如何という重大な問題に入って来るのであるが、これは他日、日本易学史の中で論ぜらるべき問題なので、先づ一つの報告だけをしておきたい。
「高嶋嘉右衛門の易学」今東光著『易学研究・昭和二十三年一月号所収』
小山春山の墓(谷中・天王寺墓地)
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