蓍策と筮竹
- 2022/07/13
- 18:48
早とちりする人が居ると困るので以前にも何度か書いた主張を今更ながらに繰り返しておくことにするけれど、私はメドハギこそが正統の立卦具だからそれを使うべきだとか、別段そういう主張をするつもりはない。
勿論、歴史的にメドハギ製の蓍策が本来であることには確信を持っているけれど(中国で当てられているノコギリソウとの比較も一応考証を済ませてある)、易占というのは数字さえランダムに拾えれば卦は立てられる訳だから、銭形平次よろしくコインを投げようが、賭博のようにサイコロを振ろうが、それはそれで立派に易占としては成立するのである。
だから、擲銭だろうがサイコロだろうが私はそれらの立卦具を使用する人を自分より低く見るつもりはないし、筮竹も当然その例外ではない(結局は腕の問題なのであるから)。
しかし、筮竹こそが正統の立卦具であるとし、擲銭派や擲賽派を見下しているような(そして此の手合いはどういう訳かは判らぬが大岳易を標榜している連中に少なくないようだ)人間は私にとってはそれこそ軽蔑の対象に他ならぬ。
これでは目糞鼻糞の類、と言って若干お下品なら、支那の古典から引いて五十歩を以て百歩を笑う者と言い換えても良い。
何度も書いたように、歴史的に見て“筮竹”は、蓍策の代用品に過ぎず、江戸期に出現する新参者の占具だからである。
『日月卦伝鈔』には「稽古ノ時ハ竹ニテケヅリ用ユベシ」とあって、筮竹出現の初期には練習時の代用品扱いでしかなかったことは明らかであろう。
ところが随貞白蛾以降に爆発的な普及を見た為、多くの人は筮竹こそ正統な立卦具であるという錯覚を起こしてしまった、もっと言えば、蓍策が筮竹に置き換わったのが漢代以前の遥か昔であると、大した考証も経ずに漠然と思い込んでしまったのである。
だから、公田連太郎や鈴木由次郎などが手掛けた昭和を代表する解説書でさえ、「繋辞伝」大衍之数章を説くに当たっては、何のためらいもなく“筮竹”の表現を用いて疑いを差し挟まない。
繰り返しになるけれど、敢えて“竹”であることを主張するにも其の論拠があるならば、私はそれを尊重する立場である。
たとえば、真勢流では蓍などという植物は本来存在せず、立卦具は最初から竹であったとして、蓍という文字は元々竹冠だったものが草冠に誤って伝写されたのだという説を主張しており、仮に此の説を是とするならば、筮竹こそが本来の立卦具であるという主張は一応成立する訳だ。
恐らくは松井羅州の思い付きと考えられる此の珍説を是とする人が今日どれだけ居るのか私には分らぬが、何かを主張するには根拠というものが要る。
私が言いたいのはそういうことだ。
勿論、歴史的にメドハギ製の蓍策が本来であることには確信を持っているけれど(中国で当てられているノコギリソウとの比較も一応考証を済ませてある)、易占というのは数字さえランダムに拾えれば卦は立てられる訳だから、銭形平次よろしくコインを投げようが、賭博のようにサイコロを振ろうが、それはそれで立派に易占としては成立するのである。
だから、擲銭だろうがサイコロだろうが私はそれらの立卦具を使用する人を自分より低く見るつもりはないし、筮竹も当然その例外ではない(結局は腕の問題なのであるから)。
しかし、筮竹こそが正統の立卦具であるとし、擲銭派や擲賽派を見下しているような(そして此の手合いはどういう訳かは判らぬが大岳易を標榜している連中に少なくないようだ)人間は私にとってはそれこそ軽蔑の対象に他ならぬ。
これでは目糞鼻糞の類、と言って若干お下品なら、支那の古典から引いて五十歩を以て百歩を笑う者と言い換えても良い。
何度も書いたように、歴史的に見て“筮竹”は、蓍策の代用品に過ぎず、江戸期に出現する新参者の占具だからである。
『日月卦伝鈔』には「稽古ノ時ハ竹ニテケヅリ用ユベシ」とあって、筮竹出現の初期には練習時の代用品扱いでしかなかったことは明らかであろう。
ところが随貞白蛾以降に爆発的な普及を見た為、多くの人は筮竹こそ正統な立卦具であるという錯覚を起こしてしまった、もっと言えば、蓍策が筮竹に置き換わったのが漢代以前の遥か昔であると、大した考証も経ずに漠然と思い込んでしまったのである。
だから、公田連太郎や鈴木由次郎などが手掛けた昭和を代表する解説書でさえ、「繋辞伝」大衍之数章を説くに当たっては、何のためらいもなく“筮竹”の表現を用いて疑いを差し挟まない。
繰り返しになるけれど、敢えて“竹”であることを主張するにも其の論拠があるならば、私はそれを尊重する立場である。
たとえば、真勢流では蓍などという植物は本来存在せず、立卦具は最初から竹であったとして、蓍という文字は元々竹冠だったものが草冠に誤って伝写されたのだという説を主張しており、仮に此の説を是とするならば、筮竹こそが本来の立卦具であるという主張は一応成立する訳だ。
恐らくは松井羅州の思い付きと考えられる此の珍説を是とする人が今日どれだけ居るのか私には分らぬが、何かを主張するには根拠というものが要る。
私が言いたいのはそういうことだ。
スポンサーサイト