私見、プロの御道具観
- 2022/07/17
- 16:11
今日披瀝するのは完全なる私見であるから難癖をつけられても困るのだけれど、どんな道具を使っても卦が立つから問題無しとして粗悪なる筮具を用いているような人は、畢竟単なる貧乏人の痩せ我慢ないし虚勢ではないかという気がせぬでもない。
例えば、どんな分野でも一流の範疇に属する人というのは使用する御道具に対し、部外者にはべらぼうと感じられるほどの金をかけているのが普通である。
弘法筆を選ばず、等というけれど、実際の御大師様が筆に実に五月蠅い人だったというのは有名な話。
私の思うところ、プロフェッショナルというのは自身の御道具に徹底的に拘り抜くものであり、それは最高のパフォーマンスを引き出す為の一つの前提に他ならない。
それがプロフェッショナル、仕事の流儀というものではなかろうか。
しかし、仮に粗悪な道具しか其の場に無いというミゼラブルな状況に置かれた場合、普段と何等変わらぬ(ように素人には感じられる)芸当を見せられるのが真のプロフェッショナルというものだと私は考える。
毎年、正月番組で芸能人格付けチェックを楽しみに視聴しているが、我々常人の耳には総額30億円の四重奏も30万円の四重奏も殆ど似たようにしか聴こえないものだ(ちなみに私は耳は割と良いほうなので、7割くらいの確率では正答している)。
これは楽器のグレードというよりも、演奏家の力量が物を言わせているのである。
だから、並外れた聴力を持ち合わせていなければ、中々違いを聴き分けるのが難しい訳だ。
その昔、ミュージシャンズ・ミュージシャンの一人としてプロの間で非常な高評価を受けているエリック・ジョンソンというギタリストが好きでよく聴いていた時期がある。
この人は御道具に拘るのは当然のことながら(使用しているダンブル・アンプは、制作者の頑固おやじハワード・ダンブル氏が自ら力量を認めたギタリストにしか売ってくれないという極め付きの逸品)、アンプを置くべニア板によってさえ音質が影響を受けるとかで、べニア板一枚さえ疎かにしないという話を以前何かの雑誌で読んだ。
ここまで来ると常人には本当かどうか俄かには信じ難い話のように感じられてならないが、何分そこまでの耳を持ち合わせていない以上、達人にありがちな神懸った伝説の一つとして有難く承っておくしかなさそうだ。
話がべニア板に逸れてしまったが、占具を立卦する為の単なるツールと見做すか否かは、占者の卦に臨む態度にも自ずと一つの性格を付与するものであろうと思う。
例えば、それを易神ないし何かしら見えざる存在を想定して、それに接触するのが筮儀であると考えれば、やはりそこには厳粛なものが存在しなければならない筈である。
紀藤先生は易神というものを強く意識しておられたけれど、その筮儀は傍で見ている側さえ居住まいを思わず正してしまうような厳粛さに充ちていたという話を嘗て聞かせて下さったのは麻野勝稔先生であった。
このように言えば、敬虔な気持ちで臨むなら道具などどうでも良いではないかと言い出す人が必ず現れよう。
確かに『易経』の、升卦「孚乃利用禴」や損卦「二簋可用享」など何れも従来「心の内に誠があれば祭祀は質素なものでも良い」という風な意に解されて来ている。
しかし、それも先に述べたように、やむなき事情でそうせざるを得ない時は内面の敬虔さこそ大切であるという意味であり、粗末でも構わないという開き直りではあるまい。
私の言わんとするところがこれにて伝われば幸いである。
例えば、どんな分野でも一流の範疇に属する人というのは使用する御道具に対し、部外者にはべらぼうと感じられるほどの金をかけているのが普通である。
弘法筆を選ばず、等というけれど、実際の御大師様が筆に実に五月蠅い人だったというのは有名な話。
私の思うところ、プロフェッショナルというのは自身の御道具に徹底的に拘り抜くものであり、それは最高のパフォーマンスを引き出す為の一つの前提に他ならない。
それがプロフェッショナル、仕事の流儀というものではなかろうか。
しかし、仮に粗悪な道具しか其の場に無いというミゼラブルな状況に置かれた場合、普段と何等変わらぬ(ように素人には感じられる)芸当を見せられるのが真のプロフェッショナルというものだと私は考える。
毎年、正月番組で芸能人格付けチェックを楽しみに視聴しているが、我々常人の耳には総額30億円の四重奏も30万円の四重奏も殆ど似たようにしか聴こえないものだ(ちなみに私は耳は割と良いほうなので、7割くらいの確率では正答している)。
これは楽器のグレードというよりも、演奏家の力量が物を言わせているのである。
だから、並外れた聴力を持ち合わせていなければ、中々違いを聴き分けるのが難しい訳だ。
その昔、ミュージシャンズ・ミュージシャンの一人としてプロの間で非常な高評価を受けているエリック・ジョンソンというギタリストが好きでよく聴いていた時期がある。
この人は御道具に拘るのは当然のことながら(使用しているダンブル・アンプは、制作者の頑固おやじハワード・ダンブル氏が自ら力量を認めたギタリストにしか売ってくれないという極め付きの逸品)、アンプを置くべニア板によってさえ音質が影響を受けるとかで、べニア板一枚さえ疎かにしないという話を以前何かの雑誌で読んだ。
ここまで来ると常人には本当かどうか俄かには信じ難い話のように感じられてならないが、何分そこまでの耳を持ち合わせていない以上、達人にありがちな神懸った伝説の一つとして有難く承っておくしかなさそうだ。
話がべニア板に逸れてしまったが、占具を立卦する為の単なるツールと見做すか否かは、占者の卦に臨む態度にも自ずと一つの性格を付与するものであろうと思う。
例えば、それを易神ないし何かしら見えざる存在を想定して、それに接触するのが筮儀であると考えれば、やはりそこには厳粛なものが存在しなければならない筈である。
紀藤先生は易神というものを強く意識しておられたけれど、その筮儀は傍で見ている側さえ居住まいを思わず正してしまうような厳粛さに充ちていたという話を嘗て聞かせて下さったのは麻野勝稔先生であった。
このように言えば、敬虔な気持ちで臨むなら道具などどうでも良いではないかと言い出す人が必ず現れよう。
確かに『易経』の、升卦「孚乃利用禴」や損卦「二簋可用享」など何れも従来「心の内に誠があれば祭祀は質素なものでも良い」という風な意に解されて来ている。
しかし、それも先に述べたように、やむなき事情でそうせざるを得ない時は内面の敬虔さこそ大切であるという意味であり、粗末でも構わないという開き直りではあるまい。
私の言わんとするところがこれにて伝われば幸いである。
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