吾不復夢見周公
- 2022/08/16
- 09:34
『明徳出版社の六十年と小林日出夫の想い出』に収載された「公田連太郎先生と易経」(酒井杏之助)に、以下のような記述がある。
公田先生は、いまだ曽て論語の講義をされたことがない。「論語の講義は自分には出来ない、論語の講義をするとなれば孔子が顔前に浮び出て来なければならぬ筈だが、自分にはその自信がないから講義は出来ない」と云われるのである。先生を知らないでこの話だけを聞くと、変に思う人もあるかも知れないが、先生の日常に接した人達は成る程と思う。それは先生が文字だけを読み解釈するのでなく、文字の奥底にある本体を常に問題にして居られるからである。
これは有名な逸話であるらしく、以前紹介した辻雙明(1903~1991)の禅骨の人々にも全く同じ内容が見えて居るが、恐らく『論語』の講義をせがむ人相手に幾度となく繰り返された問答だったのであろう。
春から『周易』講座など試みている我が身を振り返って、お前の顔前には伏羲や文王が浮かび出ているのかと問われれば返答に窮するしかないが、では実際に過去『周易』を講じた者のうちに、作易者が立ち現れたような人が果たしてどれだけ居るのだろうかという気もする。
或いは確実な実在を伴った言行録である『論語』と、伏羲や文王などという甚だ神話めいた世界の住人とでは同列に扱うべきではないのかもしれない。
しかし、『論語』述而第七に見える「吾不復夢見周公」など、少なくとも孔子には周公は血の通った実感を伴う存在であったように思われるから、聖人の域に至れば有り得ぬことでもないのであろうか。
ところで、もっと時代を遥かに引き下げて構わないなら、私には高島呑象や新井白蛾辺りは顔前に想起出来るという程ではないにせよ、その息遣いめいたものが感じられぬでもない。
それらに比べれば真勢中州等は遥かに霞がかったような曖昧模糊とした存在であるが、これはきっと松井羅州が邪魔をしているのだ。
公田先生は、いまだ曽て論語の講義をされたことがない。「論語の講義は自分には出来ない、論語の講義をするとなれば孔子が顔前に浮び出て来なければならぬ筈だが、自分にはその自信がないから講義は出来ない」と云われるのである。先生を知らないでこの話だけを聞くと、変に思う人もあるかも知れないが、先生の日常に接した人達は成る程と思う。それは先生が文字だけを読み解釈するのでなく、文字の奥底にある本体を常に問題にして居られるからである。
これは有名な逸話であるらしく、以前紹介した辻雙明(1903~1991)の禅骨の人々にも全く同じ内容が見えて居るが、恐らく『論語』の講義をせがむ人相手に幾度となく繰り返された問答だったのであろう。
春から『周易』講座など試みている我が身を振り返って、お前の顔前には伏羲や文王が浮かび出ているのかと問われれば返答に窮するしかないが、では実際に過去『周易』を講じた者のうちに、作易者が立ち現れたような人が果たしてどれだけ居るのだろうかという気もする。
或いは確実な実在を伴った言行録である『論語』と、伏羲や文王などという甚だ神話めいた世界の住人とでは同列に扱うべきではないのかもしれない。
しかし、『論語』述而第七に見える「吾不復夢見周公」など、少なくとも孔子には周公は血の通った実感を伴う存在であったように思われるから、聖人の域に至れば有り得ぬことでもないのであろうか。
ところで、もっと時代を遥かに引き下げて構わないなら、私には高島呑象や新井白蛾辺りは顔前に想起出来るという程ではないにせよ、その息遣いめいたものが感じられぬでもない。
それらに比べれば真勢中州等は遥かに霞がかったような曖昧模糊とした存在であるが、これはきっと松井羅州が邪魔をしているのだ。
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