ある日の公田連太郎氏(中)
- 2022/08/25
- 18:23
公田さんの家は古くて、小さい。
やけたタタミ、粗末な机、黒ずんだカベ、そのカベに「遁世」と書いた良寛の木彫がかかっている。
それを背にした公田さんは、いかにも安らかで、顔回のように毎日を楽しんでいるように見える。
しかし、それは世捨て人の気楽さではない。
世間に認められるとか、社会的な地位を得るということに何の興味も示さない公田さんだが、逆に世を捨てたり、世を逃れたりするのも決して快としない。
「竹林の七賢などといいますが、あの人たちは貴公子たちで、ウマイことばかりいって、大した人たちではありませんよ。私は荘子を何度か読みましたが、荘子に共鳴しているわけでもありません。荘子は乱世の思想家です。世の中をはすかいに見ています。おもしろいには、おもしろいが共感できない」
人間として大事なのは、やはり世間につくすということだと公田さんは考える。
だから、四聖と呼ばれる釈迦、キリスト、孔子、ソクラテスの四聖者のうちで、無条件に現世的な孔子とソクラテスをえらぶのである。
「易によれば、宇宙の本体は大極。それが積極と消極に分かれる。大極を主に考えれば人生を越えて宗教が、大極の変化を主に考えればそこに人間の道が生れる。人生を越えた宗教を求めるのが仏典、人間の道を説くのが漢籍。このふたつがなければ完全ではありません。けれども人間として生まれた以上は、人生を越えた神や仏より、まず人間の道を修めるべきでごわしょう」
公田さんは、かくれた学者にはちがいないが、決して竹林に住もうとしたり、ことさら異を唱えようなどとは思わない。あたりまえをとうとぶのだ。
だから、公田さんはこういう。
「当り前のことを、当り前にする。それがいちばんいいのです。孔子の教えも、禅もそれを説いているのです。わかったことはわかった、わからんことはわからん、それがわかれば座禅など組まなくてもよい。わからぬことをわかったようにいったり、当り前のことをさしおいて、当り前でないものを捜し歩く、それが迷いでごわしょう。火が水になるわけのものでもないし……」
公田さんが徳川時代の禅僧、至道無難禅師に傾倒するのもそのためだ。
この禅僧は、その法語をかな文字でやさしく書いている。
やさしく書くというのは、どんなにむずかしいことか。
しかも、書かれてあるのは、実に当り前のことなのである。
「慈悲というものは、まことに結構なものだから心にかけて慈悲しなさい。のちには、まことの慈悲に至るだろう。慈悲とは道正しくおろかなことなり……無難禅師はこういっています。これは孔子にも通じる。おろかであるという気持が出てこなければダメなんでしょうな。こんな説明では説明にならんですが、味わってくださればだんだん意味がわかります」
二年以上かけて、この無難禅師の法語を集めたのが公田さんの「いちばんうれしかった仕事」だそうである。
公田さんの信条のひとつは、「一、以てこれを貫く」ということだ。
「道徳の根本はひとつ、それですべてが貫けるということです。忠恕(ちゅうじょ)でも、仁でも、義でも、礼でもよい。どんな仕事をしていても、結局はひとつに還元できなければいけないと思います」
公田さんの「一」はなんだろう。公田さんはこう答えた。
「まあ、誠でござしょう」
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