公田連太郎と老荘会
- 2022/09/01
- 18:36
公田連太郎先生は一度も定職についたことがなく、一生を清貧の中に送った隠儒であるが、「国訳漢文大成」中の『資治通鑑』の全訳に取り組んでおられた際、これだけの大学者を遊ばせておくのは勿体ないと、友人の小杉放庵(1881~1964)が田端の自宅に公田先生を囲んで漢籍の講義を聴く集まりを作り、これを“老荘会”と称した。
まず『荘子』から始めて、内篇、外篇を終えるのに四年かかり、それから『詩経』『文選』を経て、『易経』の半ばで空襲により中断を余儀なくされたが、十二、三年も継続したという。
週一回の講座で毎度八九人の参加者があったというのは個人宅の勉強会としてはこれくらいの規模が上限だろうが、参加者の顔ぶれは頗る豪華である。
主催者が絵描きであるから同業の参会者少なからず、木村荘八(1893~1958)や中川一政(1893~1991)、岡本太郎の両親である岡本一平(1886~1948)岡本かの子(1889~1939)も常連で、警視総監の唐沢俊樹(1891~1967)、第一銀行頭取の酒井杏之助(1893~1980)も熱心に参加していたといい、一度きりの出席だったようだが、記念すべき第一回には芥川龍之介(1892~1927)も列席したそうだ。
附近は文学愛好家の散策路となっているらしく、区民センター前には簡単な案内板が設置されている。
それによると、附近には村山槐多(1896~1919)、萩原朔太郎(1886~1942)、小林秀雄(1902~1983)、岡倉天心(1863~1913)、竹久夢二(1884~1934)らの居宅もあったようだ。
まず『荘子』から始めて、内篇、外篇を終えるのに四年かかり、それから『詩経』『文選』を経て、『易経』の半ばで空襲により中断を余儀なくされたが、十二、三年も継続したという。
週一回の講座で毎度八九人の参加者があったというのは個人宅の勉強会としてはこれくらいの規模が上限だろうが、参加者の顔ぶれは頗る豪華である。
主催者が絵描きであるから同業の参会者少なからず、木村荘八(1893~1958)や中川一政(1893~1991)、岡本太郎の両親である岡本一平(1886~1948)岡本かの子(1889~1939)も常連で、警視総監の唐沢俊樹(1891~1967)、第一銀行頭取の酒井杏之助(1893~1980)も熱心に参加していたといい、一度きりの出席だったようだが、記念すべき第一回には芥川龍之介(1892~1927)も列席したそうだ。
小杉放庵旧居跡地(北区田端3-16-2)
老荘会の会場であった旧小杉邸は現在田端区民センターとなっている。
附近は文学愛好家の散策路となっているらしく、区民センター前には簡単な案内板が設置されている。
それによると、附近には村山槐多(1896~1919)、萩原朔太郎(1886~1942)、小林秀雄(1902~1983)、岡倉天心(1863~1913)、竹久夢二(1884~1934)らの居宅もあったようだ。
スポンサーサイト