易経講話之地
- 2022/09/04
- 10:01
明徳出版社より上梓され、洛陽の紙価を高からしめた『易経講話』全五巻が文字通り講話の草案を元にして成立した書物であるのは書名の通りであるが、かねてから講話地のイエマイルを念願していて此の夏ようやくそれが実現し、喜びもひとしおである。
明徳出版社版の元になった謄写版を実見していないので確かなことは言えぬが、公田翁の『周易』講話は、戦前の老荘会に於いても行われていて、戦争により中断を余儀なくされたらしい。
『易経講話』では雑卦伝まで十翼の完全な解説が行われているので、講義場所が小杉邸から自身の居宅に移って、残りの部分も継続して講義されたものか、或いは初めから新たに解説し直されたのか、現時点の私には詳らかでないものの、最終の校閲など全て公田宅で行われたもののようだから、ここを“易経講話之地”と見做して一向に差し支えなかろう。
所在は諸氏の回想中に「大井」とあるが、特定することが出来たのは朝日新聞死亡欄の訃報に拠り、そこには「東京都品川区大井出石5101の自宅で死去」とあった。
この番地は既に消滅していて優秀なGoogle先生にもお手上げのようなので、1964年の『住居表示新旧対照案内図』品川区編を参照すると、「5101」に該当する家が地図上には四軒あり、森本氏の記事からすれば西南端に位置するL字型の家がどうやら怪しい。
今度は1970年の『品川区全区』(全住宅案内地図帳)を参照すると、はっきり「公田」と記されてあり、これにてピンポイントで“易経講話之地”を特定出来たことになる。
1970年と言えば、既に没後7年が経過しているが、嗣子で数学者となった公田蔵氏(のちに立教大学名誉教授)が起居しておられたのだと思われる。
写真奥突き当り右側附近が嘗て『易経』講話の行なわれた場所で、没する一年ほど前、我が広瀬宏道先生が訪ねられたのも此の路地奥に違いない。
近隣住民にも少し尋ねてみたが、ここに顔回の如き儒人が暮らしたことを知る者は残念ながら皆無であった。
明徳出版社版の元になった謄写版を実見していないので確かなことは言えぬが、公田翁の『周易』講話は、戦前の老荘会に於いても行われていて、戦争により中断を余儀なくされたらしい。
『易経講話』では雑卦伝まで十翼の完全な解説が行われているので、講義場所が小杉邸から自身の居宅に移って、残りの部分も継続して講義されたものか、或いは初めから新たに解説し直されたのか、現時点の私には詳らかでないものの、最終の校閲など全て公田宅で行われたもののようだから、ここを“易経講話之地”と見做して一向に差し支えなかろう。
所在は諸氏の回想中に「大井」とあるが、特定することが出来たのは朝日新聞死亡欄の訃報に拠り、そこには「東京都品川区大井出石5101の自宅で死去」とあった。
この番地は既に消滅していて優秀なGoogle先生にもお手上げのようなので、1964年の『住居表示新旧対照案内図』品川区編を参照すると、「5101」に該当する家が地図上には四軒あり、森本氏の記事からすれば西南端に位置するL字型の家がどうやら怪しい。
今度は1970年の『品川区全区』(全住宅案内地図帳)を参照すると、はっきり「公田」と記されてあり、これにてピンポイントで“易経講話之地”を特定出来たことになる。
1970年と言えば、既に没後7年が経過しているが、嗣子で数学者となった公田蔵氏(のちに立教大学名誉教授)が起居しておられたのだと思われる。
写真奥突き当り右側附近が嘗て『易経』講話の行なわれた場所で、没する一年ほど前、我が広瀬宏道先生が訪ねられたのも此の路地奥に違いない。
近隣住民にも少し尋ねてみたが、ここに顔回の如き儒人が暮らしたことを知る者は残念ながら皆無であった。
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