至道庵を訪ねて
- 2022/09/10
- 09:50
至道無難禅師遷化の地である至道庵は、かつて尾州犬山の輝東庵、信州飯山の正受庵と並んで天下の三庵に数えられ、臨済宗に於いて尊重された霊域であったが、他の二庵が今も存するのに対し、至道庵は幾度も廃滅を繰り返して今日跡形も無くなっているのは誠に残念なことである。
至道庵は、延宝二年(1674)の春、小石川戸崎町に禅師が金五十兩を以て購い、隠居所としたもので、二年後に禅師の遷化されし後は、百年も経たないうちに荒廃してしまった。
それを白隠禅師と東嶺禅師とが骨折って復興されたのであるが、其の後再び荒廃することとなり、明治の中頃、公田先生の禅の師である南隠禅師(1834~1904)が現状を嘆いて再興を試み、当時至道庵に住していた老婆(最後の庵主であった仁邦古堯禅師の養女)に交渉するも志願を果たすこと能わず、老婆の死後に庵を相続した養子の杉山乙吉が明治39年に細川男爵に地所を売却したことで、戸崎町の至道庵は遂に廃絶に至ったのである。
古地図と対照して現地調査を試みたところ、写真の民家が嘗て至道庵が在った場所に立てられているようだ。
明治39年の廃絶後、ほどなくして今度は小石川徳雲寺の住職・天祐碩門和尚達が再び復興を謀り、同寺内に新築されたのが再建至道庵で、公田先生は大正5年11月から同7年秋の前後数か月間、此の再建至道庵に寄寓して同庵の古記録や古文書を閲覧し、それを元に「至道庵考」を著わされたが、其の後原稿の失われた為、『至道無難禅師集』に収録された「至道庵縁起」は新たに稿を起こされたものである。
なお、この再建至道庵も昭和20年の戦災により焼失して今日見ることは出来ない。
現在の徳雲寺本堂が其の跡に建てられているという。
至道庵は、延宝二年(1674)の春、小石川戸崎町に禅師が金五十兩を以て購い、隠居所としたもので、二年後に禅師の遷化されし後は、百年も経たないうちに荒廃してしまった。
それを白隠禅師と東嶺禅師とが骨折って復興されたのであるが、其の後再び荒廃することとなり、明治の中頃、公田先生の禅の師である南隠禅師(1834~1904)が現状を嘆いて再興を試み、当時至道庵に住していた老婆(最後の庵主であった仁邦古堯禅師の養女)に交渉するも志願を果たすこと能わず、老婆の死後に庵を相続した養子の杉山乙吉が明治39年に細川男爵に地所を売却したことで、戸崎町の至道庵は遂に廃絶に至ったのである。
古地図と対照して現地調査を試みたところ、写真の民家が嘗て至道庵が在った場所に立てられているようだ。
明治39年の廃絶後、ほどなくして今度は小石川徳雲寺の住職・天祐碩門和尚達が再び復興を謀り、同寺内に新築されたのが再建至道庵で、公田先生は大正5年11月から同7年秋の前後数か月間、此の再建至道庵に寄寓して同庵の古記録や古文書を閲覧し、それを元に「至道庵考」を著わされたが、其の後原稿の失われた為、『至道無難禅師集』に収録された「至道庵縁起」は新たに稿を起こされたものである。
なお、この再建至道庵も昭和20年の戦災により焼失して今日見ることは出来ない。
現在の徳雲寺本堂が其の跡に建てられているという。
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