公田連太郎先生と漢学
- 2022/09/13
- 18:35
漢方をはじめてから誰れかよいお師匠さんに漢学を教えて頂きたいと考えていた。
われわれの父祖は、漢学の教養によって育てられ、身を修め、家を斉え、進んでは国を治められた。
漢学は大人の学だ。加藤清正が「以テ六尺ノ狐ヲ託スベク、以テ百里ノ命ヲ寄スベク、大節ニ臨ミテ奪ウベカラズ、君子人カ、君子人ナリ」という論語の一句に感じて、豊臣秀吉の遺児秀頼を守る快心を固め、終生の清節を全うしたように、漢学の垂訓は人生各般の場合に適切なものがある。
江戸時代の医家は、まず漢学を修めて人間としてのバックボーンをつくり、しかしてのち、医学の道にはげんだ。
ある日、中将湯ビル診療所で小出弥生先生と話しているとき、『資治通鑑』や『易経』を国訳しておられる公田連太郎先生は全くもつてすばらしい、一度謦咳に接したいものだとお話したところ、小出先生曰く、私は月に二回、公田先生に詩経を教わつていますと、それは機縁だ。私もぜひ教わりたい、ひとつ先生に頼んでいただけませんか、とお願いした。小出先生の御紹介により、私も公田先生の講義の末席に加えてもらう身となつた。
二、三回出席しているうちに、私一人きくのはもつたいないと思い、同学の山田光胤先生にも、公田先生は現代の碩学だ、ぜひ受講しなさいとすすめた。
毎月第二と第四の土曜日の午後三時頃、大井町の先生宅に訪れた。いろいろな方面の方が多く見えていた。お習字の先生、お茶の先生、絵の先生、高校の先生、大学の先生それにわれわれ漢方医家と、バラエチイにとんでいた。
公田先生の業績は、まず『国訳漢文大成』の独力による訳註である。全八十八巻のうち三十一巻を手がけられた。それから『荘子』の全訳。さらに徳川時代の名僧『至道無難禅師集』の編著。『易経講話』全五巻の講述。また中国明朝の大儒者、呂新吾の『呻吟語』の訳註などを完成された。
国文学者で小説家であつたあの博覧強記の幸田露伴翁が「漢文のことなら、公田君に相談しなさい」といつたほど、先生は万巻の書を読破した碩学であつた。
その一生は漢学一すじの生涯であり、清貧にあまんじ、学界や世間と隔絶しながら、老荘の学に通じ、儒教、仏教の道をひたむきに歩んだ人で、まさに「隠儒」といつた風格の人柄であつた。
この『漢学に対する深い学殖とすぐれた労作』にたいし、昭和三十六年の「朝日賞」を受けられた。
私は毎回の講義に列席しながら、先生のほのぼのとした人柄にうたれた。たくまずしていづるユーモア、古今東西にわたる該博な智識、全くもつて悟りきつた名僧名儒の感があり、われわれは身は昭和の今日にありながら、心は四千年前の古代にある思いにしばしばかられた。
私は、公田先生といえば、いまでもおぼえている。いや、生涯忘れることができないであろう、あの「玉」という言葉を――。
ある日、講義の前の雑談のときに、先生はこう話された。
中国の人が、澄みきつた瀬戸内海を見て、次のように言つたと。
“ああ、この海は非常に美しくてすばらしい。だが、これがいま少し濁つて玉のようであつたら、なお一層美しいであろう”
話はタッタこれだけであつたが、その時、私は考えた。人間も澄みきつている水晶よりも、少し濁みのある玉の方が美しいのではないか――と。
われわれ日本人は、淡泊な気質であるから、底の底まで澄みきつている瀬戸内海や、そういう型の人物を好むが、中国人は底がよどみ、何をふくんでいるか分らない揚子江を好むように、そういう人物を大人といつて推奨する。われわれ日本人は、こういう型の人物を、腹黒いといつて嫌う。これは自然環境のせいかも知れない。
それにしても「玉」という言葉はよい、「玉石」「玉杯」「玉顔」「玉姿」「玉章」……と。
私は今日まで、薩摩気質まるだしの、それこそ水晶のように透明そのものを一番尊とし、そのような人物とよく交際してきたが、この「玉」の話をきいてからは、深淵に何が潜んでいるか分らないような、一見、不透明のように見えるが美しい「玉」に、自分を練えねばと真剣に考えるようになつた。「貧賤憂慽、汝ヲ玉ニ成ス」だ。
不透明に見える深淵にこそ、龍が潜んでいるのではないか。これこそ、『易経』の「潜龍」ではないか――。
透明のなかに何が潜むことができようか。
私は今後、公田先生といえば、この「玉」の話を先ず第一にするであろう。それほど、この話は感銘をうけた。
公田先生の「玉」の話は「潜龍」へと飛んだが、「潜龍」は『易経』の劈頭にでてくる<乾為天>の一番はじめの爻、「潜龍、用ウルナカレ」である。これについて、公田先生は右のように講述しておられる。
伝説によれば、龍は、千年の間、地の底、深い淵の底に潜んで、力を養い徳を養い、千年の修養を積んだのちに地上にあらわれ、天に昇り、雲をよび雨をおこしなどする霊妙不可思議なる力を得られるということである。
この潜龍はその千年の間、淵の底に潜んでおつて、力を養い徳を養つている龍である。修行中の龍であるから、世間に飛びだしていろいろな仕事をしようとしてはならぬ。雲をよび雨をふらせるようなことをしてはならぬ。それが「用ウルナカレ」だ。
これを聖人君子に引きあてて考えるならば、聖人君子がひたすら学問を勉強して心の養いを心掛る時である。その時には、ひたすら勉強し修養すべきであり、世間にでかけて色々なことをしようとしてはならぬのである。いわば学生時代であるので、外にでかけて政治運動や社会運動などをすることなく、ひたすら学ぶべきを学び、養うべきを養うべきである。また、一国の君、天下の君にあてて考えるならば、まだ幼少なる皇太子であり、学問も十分でなく、心の養いも十分でないのであり、ひたすら勉強修養に心懸けなさるべきであつて、世の中の表面にあらわれて色々な仕事をしようと考えてはならぬのである。そのほか色々な事にあてて工夫すべきである。そしてこの「潜龍」は「見龍」→「乾龍」→「淵龍」→「飛龍」→「亢龍」となるのである。
公田先生は、『易経』という書物はいかようにも解釈できる書物であると。
だから、人によつて解釈がちがう。占いの本だと思つている人もいれば、宇宙の理法を説いた本だと考えている人もいる。占いの本にはちがいないけれども、やがて、占うという目的を越えて、宇宙の変化の理法に説きおよんだと見るのが正しかろう。
「易」という字の起源についても色々な説があるが、要するに、易は変易なりで、事物の変化することである。宇宙間のあらゆる事物は、大きい物でも小さい物でもみな年々歳々、時々刻々に変化し、しばらくの間も同じところにじつとしていない。その天地万物の変化し、移り変つてゆく態を、六十四種に分類して、一種特別な形式をもつて説明しているのが、易の六十四卦、三百八十四爻なのである。この六十四卦、三百八十四爻の意味を説いたのが『易経』の本文であるが、といつても実はその意味を残らず説いてあるわけではなく、全体の意味の九牛の一毛であり、私が分つたと思つているのは、さらにその九牛の一毛にすぎないと、先生は言われる。
さて易は一口にいうなら、天地陰陽の法則である。そして易は変易なりで、事物の移り変つてゆく状態を予知しようとする。
われわれの生態および病態も、時々刻々に変化するダイナミック・スタビリティ(流動的恒常性)である。これを誤りなく予測するには、どうしても易の原理を知らねばならぬ。それ故、江戸時代の漢方医家はみな一通り易を学んだ。
易は、プラス、マイナスという二つの次元なる陽と陰との対立交錯がつくりだす正と反とのテーゼ、アンチテーゼの弁証法的形態である。これは現代科学の眼でみても、決して間違つた宇宙観ではない。
科学的に、あらゆる物質は、究極的に陽電気をおびた陽電子と陰電気をおびた陰電子とに分れてしまう。たとえば、水素の原子は一個の陽電子のまわりを一個の陰電子が廻転しているものなのだ。
こうして、陽電子と陰電子の各種の結合から、九十数種の元素が生れ、その複雑な無限の組合せが、宇宙のなかのあらゆる物質を形成して行くのである。
易の思想も、この陽と陰との組合せによつて、人間とそれを包む自然の現象を理解、解釈しようというのである。
中国の聖人孔子は「人生五十ニシテ易ヲ学ババ大過ナカラン」といつたように、人間が老年になり、多くの経験をつんだとき、真の運命の本質を示した易の世界を知ることにより今後の未来へのあやまりのない予測がなし得られようとするのである。
人間最高の智恵の結晶である易、この易を平易に解説していただいた公田先生の『易経講話』を常に拝読し、私は人生百般の未来を察知する貴重な指針としている。
われわれの父祖は、漢学の教養によって育てられ、身を修め、家を斉え、進んでは国を治められた。
漢学は大人の学だ。加藤清正が「以テ六尺ノ狐ヲ託スベク、以テ百里ノ命ヲ寄スベク、大節ニ臨ミテ奪ウベカラズ、君子人カ、君子人ナリ」という論語の一句に感じて、豊臣秀吉の遺児秀頼を守る快心を固め、終生の清節を全うしたように、漢学の垂訓は人生各般の場合に適切なものがある。
江戸時代の医家は、まず漢学を修めて人間としてのバックボーンをつくり、しかしてのち、医学の道にはげんだ。
ある日、中将湯ビル診療所で小出弥生先生と話しているとき、『資治通鑑』や『易経』を国訳しておられる公田連太郎先生は全くもつてすばらしい、一度謦咳に接したいものだとお話したところ、小出先生曰く、私は月に二回、公田先生に詩経を教わつていますと、それは機縁だ。私もぜひ教わりたい、ひとつ先生に頼んでいただけませんか、とお願いした。小出先生の御紹介により、私も公田先生の講義の末席に加えてもらう身となつた。
二、三回出席しているうちに、私一人きくのはもつたいないと思い、同学の山田光胤先生にも、公田先生は現代の碩学だ、ぜひ受講しなさいとすすめた。
毎月第二と第四の土曜日の午後三時頃、大井町の先生宅に訪れた。いろいろな方面の方が多く見えていた。お習字の先生、お茶の先生、絵の先生、高校の先生、大学の先生それにわれわれ漢方医家と、バラエチイにとんでいた。
公田先生の業績は、まず『国訳漢文大成』の独力による訳註である。全八十八巻のうち三十一巻を手がけられた。それから『荘子』の全訳。さらに徳川時代の名僧『至道無難禅師集』の編著。『易経講話』全五巻の講述。また中国明朝の大儒者、呂新吾の『呻吟語』の訳註などを完成された。
国文学者で小説家であつたあの博覧強記の幸田露伴翁が「漢文のことなら、公田君に相談しなさい」といつたほど、先生は万巻の書を読破した碩学であつた。
その一生は漢学一すじの生涯であり、清貧にあまんじ、学界や世間と隔絶しながら、老荘の学に通じ、儒教、仏教の道をひたむきに歩んだ人で、まさに「隠儒」といつた風格の人柄であつた。
この『漢学に対する深い学殖とすぐれた労作』にたいし、昭和三十六年の「朝日賞」を受けられた。
私は毎回の講義に列席しながら、先生のほのぼのとした人柄にうたれた。たくまずしていづるユーモア、古今東西にわたる該博な智識、全くもつて悟りきつた名僧名儒の感があり、われわれは身は昭和の今日にありながら、心は四千年前の古代にある思いにしばしばかられた。
私は、公田先生といえば、いまでもおぼえている。いや、生涯忘れることができないであろう、あの「玉」という言葉を――。
ある日、講義の前の雑談のときに、先生はこう話された。
中国の人が、澄みきつた瀬戸内海を見て、次のように言つたと。
“ああ、この海は非常に美しくてすばらしい。だが、これがいま少し濁つて玉のようであつたら、なお一層美しいであろう”
話はタッタこれだけであつたが、その時、私は考えた。人間も澄みきつている水晶よりも、少し濁みのある玉の方が美しいのではないか――と。
われわれ日本人は、淡泊な気質であるから、底の底まで澄みきつている瀬戸内海や、そういう型の人物を好むが、中国人は底がよどみ、何をふくんでいるか分らない揚子江を好むように、そういう人物を大人といつて推奨する。われわれ日本人は、こういう型の人物を、腹黒いといつて嫌う。これは自然環境のせいかも知れない。
それにしても「玉」という言葉はよい、「玉石」「玉杯」「玉顔」「玉姿」「玉章」……と。
私は今日まで、薩摩気質まるだしの、それこそ水晶のように透明そのものを一番尊とし、そのような人物とよく交際してきたが、この「玉」の話をきいてからは、深淵に何が潜んでいるか分らないような、一見、不透明のように見えるが美しい「玉」に、自分を練えねばと真剣に考えるようになつた。「貧賤憂慽、汝ヲ玉ニ成ス」だ。
不透明に見える深淵にこそ、龍が潜んでいるのではないか。これこそ、『易経』の「潜龍」ではないか――。
透明のなかに何が潜むことができようか。
私は今後、公田先生といえば、この「玉」の話を先ず第一にするであろう。それほど、この話は感銘をうけた。
公田先生の「玉」の話は「潜龍」へと飛んだが、「潜龍」は『易経』の劈頭にでてくる<乾為天>の一番はじめの爻、「潜龍、用ウルナカレ」である。これについて、公田先生は右のように講述しておられる。
伝説によれば、龍は、千年の間、地の底、深い淵の底に潜んで、力を養い徳を養い、千年の修養を積んだのちに地上にあらわれ、天に昇り、雲をよび雨をおこしなどする霊妙不可思議なる力を得られるということである。
この潜龍はその千年の間、淵の底に潜んでおつて、力を養い徳を養つている龍である。修行中の龍であるから、世間に飛びだしていろいろな仕事をしようとしてはならぬ。雲をよび雨をふらせるようなことをしてはならぬ。それが「用ウルナカレ」だ。
これを聖人君子に引きあてて考えるならば、聖人君子がひたすら学問を勉強して心の養いを心掛る時である。その時には、ひたすら勉強し修養すべきであり、世間にでかけて色々なことをしようとしてはならぬのである。いわば学生時代であるので、外にでかけて政治運動や社会運動などをすることなく、ひたすら学ぶべきを学び、養うべきを養うべきである。また、一国の君、天下の君にあてて考えるならば、まだ幼少なる皇太子であり、学問も十分でなく、心の養いも十分でないのであり、ひたすら勉強修養に心懸けなさるべきであつて、世の中の表面にあらわれて色々な仕事をしようと考えてはならぬのである。そのほか色々な事にあてて工夫すべきである。そしてこの「潜龍」は「見龍」→「乾龍」→「淵龍」→「飛龍」→「亢龍」となるのである。
公田先生は、『易経』という書物はいかようにも解釈できる書物であると。
だから、人によつて解釈がちがう。占いの本だと思つている人もいれば、宇宙の理法を説いた本だと考えている人もいる。占いの本にはちがいないけれども、やがて、占うという目的を越えて、宇宙の変化の理法に説きおよんだと見るのが正しかろう。
「易」という字の起源についても色々な説があるが、要するに、易は変易なりで、事物の変化することである。宇宙間のあらゆる事物は、大きい物でも小さい物でもみな年々歳々、時々刻々に変化し、しばらくの間も同じところにじつとしていない。その天地万物の変化し、移り変つてゆく態を、六十四種に分類して、一種特別な形式をもつて説明しているのが、易の六十四卦、三百八十四爻なのである。この六十四卦、三百八十四爻の意味を説いたのが『易経』の本文であるが、といつても実はその意味を残らず説いてあるわけではなく、全体の意味の九牛の一毛であり、私が分つたと思つているのは、さらにその九牛の一毛にすぎないと、先生は言われる。
さて易は一口にいうなら、天地陰陽の法則である。そして易は変易なりで、事物の移り変つてゆく状態を予知しようとする。
われわれの生態および病態も、時々刻々に変化するダイナミック・スタビリティ(流動的恒常性)である。これを誤りなく予測するには、どうしても易の原理を知らねばならぬ。それ故、江戸時代の漢方医家はみな一通り易を学んだ。
易は、プラス、マイナスという二つの次元なる陽と陰との対立交錯がつくりだす正と反とのテーゼ、アンチテーゼの弁証法的形態である。これは現代科学の眼でみても、決して間違つた宇宙観ではない。
科学的に、あらゆる物質は、究極的に陽電気をおびた陽電子と陰電気をおびた陰電子とに分れてしまう。たとえば、水素の原子は一個の陽電子のまわりを一個の陰電子が廻転しているものなのだ。
こうして、陽電子と陰電子の各種の結合から、九十数種の元素が生れ、その複雑な無限の組合せが、宇宙のなかのあらゆる物質を形成して行くのである。
易の思想も、この陽と陰との組合せによつて、人間とそれを包む自然の現象を理解、解釈しようというのである。
中国の聖人孔子は「人生五十ニシテ易ヲ学ババ大過ナカラン」といつたように、人間が老年になり、多くの経験をつんだとき、真の運命の本質を示した易の世界を知ることにより今後の未来へのあやまりのない予測がなし得られようとするのである。
人間最高の智恵の結晶である易、この易を平易に解説していただいた公田先生の『易経講話』を常に拝読し、私は人生百般の未来を察知する貴重な指針としている。
寺師睦済
(漢方の臨床・昭和39年11月号)
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