真福寺~公田連太郎仮寓之地~
- 2022/09/16
- 18:12
朝日新聞に載った森本記者の取材記事において、公田先生が三浦半島の佐島に寄寓していた大正7年、津波に蔵書をさらわれ、仏典・漢籍のみが砂浜に残ったという、其の後東洋の典籍一すじに歩む契機となった事件が紹介されているが(記事中、大正七年とあるのは恐らくは間違いで、前年の大正6年10月1日の台風による津波被害と思われる)、三浦半島時代の公田連太郎を語るならば、やはり北原白秋に触れぬ訳にはいくまい。
白秋が初めて公田先生を知ったのは明治43年で、パンの会の仲間が催した石井柏亭(1882~1958)の渡欧送別会と、倉田白羊(1881~1938)の結婚披露宴に出席した会場でも会っているのだが、明治45年7月に人妻と只ならぬ間柄になった挙句に相手の夫から姦通罪で告訴され、同月6日より20日まで市ヶ谷の未決監に拘留された所謂「桐の花事件」が起こり、保釈後も世の指弾を受け満身創痍の状態となっていた白秋は、大正元年十二月中旬に三崎の真福寺に寄寓することとなった公田先生より是非遊びに来るようにと書き添えられた年賀状を受け、大正2年1月2日、東京の霊岸島から船に乗り、三崎に向かった。
小杉放庵は当時の公田先生について「胸をわづらつて居たやうに思ふ」と書いているから、恐らくは療養を目的としたものであったのだろう。
一方の白秋も「一月二日に、私は海をこえて三崎に行つた。死なうと思つたのである」(『朱欒』二月号後記)と書いているから、余程憔悴しきっていたらしい。
しかし、三崎で約十か月暮らした白秋は、公田先生との交流により仏教思想の影響を強く受け、これが契機となって立ち直ることが出来たのであった。
或る種、命の恩人と言っても良い存在であった訳だ。
七月の或る日の早朝、三崎の清宝山真福寺を訪ねる機会を得た。
意外にも真福寺は禅宗寺院ではなく、西本願寺派に属する真宗寺院なのだが、公田先生は庫裡の二階に寄宿しておられたらしい。
やけに薄汚れた境内の案内板には、当地に於ける公田先生と白秋との関わりが記されている。
白秋が初めて公田先生を知ったのは明治43年で、パンの会の仲間が催した石井柏亭(1882~1958)の渡欧送別会と、倉田白羊(1881~1938)の結婚披露宴に出席した会場でも会っているのだが、明治45年7月に人妻と只ならぬ間柄になった挙句に相手の夫から姦通罪で告訴され、同月6日より20日まで市ヶ谷の未決監に拘留された所謂「桐の花事件」が起こり、保釈後も世の指弾を受け満身創痍の状態となっていた白秋は、大正元年十二月中旬に三崎の真福寺に寄寓することとなった公田先生より是非遊びに来るようにと書き添えられた年賀状を受け、大正2年1月2日、東京の霊岸島から船に乗り、三崎に向かった。
小杉放庵は当時の公田先生について「胸をわづらつて居たやうに思ふ」と書いているから、恐らくは療養を目的としたものであったのだろう。
一方の白秋も「一月二日に、私は海をこえて三崎に行つた。死なうと思つたのである」(『朱欒』二月号後記)と書いているから、余程憔悴しきっていたらしい。
しかし、三崎で約十か月暮らした白秋は、公田先生との交流により仏教思想の影響を強く受け、これが契機となって立ち直ることが出来たのであった。
或る種、命の恩人と言っても良い存在であった訳だ。
七月の或る日の早朝、三崎の清宝山真福寺を訪ねる機会を得た。
意外にも真福寺は禅宗寺院ではなく、西本願寺派に属する真宗寺院なのだが、公田先生は庫裡の二階に寄宿しておられたらしい。
境内の規模に比べると本堂が不釣り合いな位に大きい。
やけに薄汚れた境内の案内板には、当地に於ける公田先生と白秋との関わりが記されている。
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