竜門寺
- 2022/09/19
- 10:00
私の漢文の先生は故小川芋銭と友達であったから、もう八十より九十に近くなられただろう公田連太郎先生である。
先生が易学にもっとも熱情をもっていられるのは、先生が根本通明の門下であるからであろう。
先生は「国訳漢文大成」八十八巻のうち、三分の一以上訳註されたから、知っている人は知っているだろうが、知らない人の方がずっと多いのである。
先生は二十一歳から南隠老師の講筵に列席し、禅の究明を生涯の仕事に思っていられたようだが、「至道無難禅師集」「南隠老師追憶」の編著、鈴木大拙との敦煌本「六祖壇経」や「荷沢神会禅師語録」などの校訂をしていられる。
私達は一年生であるから、「荘子」からはじめて「詩経」「易経」の講義を何年にもわたってうけた。
そのことを書くのが目的ではない。
昔はじめて先生を訪ねたとき、床に曲直分明という大字の軸がかかっていた。
字義どおり曲直分明の楷書の大字で、そこに何の疑のない子供の眼のような字であった。
それが盤珪禅師の書であった。
私が盤珪禅師を覚えたはじめで、禅師の書は後にも先にもこの書以外見たことはなかった。
公田先生は十九のとき、神田の古本屋でこれを発見して十九円で買われたという。
余程ほしかったとみえて、食事を節して金を作ったといわれた。
先生は盤珪というのはえらい坊さんで、黄檗の隠元禅師が中国から来て長崎に上陸したときそこに居合わせて、隠元が舟から陸に足をかけたときに、これは大した坊主ではないと見抜いた人だといった。
先生のいうには、そのころ日本にも修行をつんだ坊さんがたくさんいた。
しかし隠元などは文章とか弁舌の立派さで人を惹いたのだといった。
また本当の坊さんというものは、そう世の中に出たがらなかったからといった。
やはり公田先生のごときものであったろう。
盤珪禅師の法語はそれから読んだ。
先生が易学にもっとも熱情をもっていられるのは、先生が根本通明の門下であるからであろう。
先生は「国訳漢文大成」八十八巻のうち、三分の一以上訳註されたから、知っている人は知っているだろうが、知らない人の方がずっと多いのである。
先生は二十一歳から南隠老師の講筵に列席し、禅の究明を生涯の仕事に思っていられたようだが、「至道無難禅師集」「南隠老師追憶」の編著、鈴木大拙との敦煌本「六祖壇経」や「荷沢神会禅師語録」などの校訂をしていられる。
私達は一年生であるから、「荘子」からはじめて「詩経」「易経」の講義を何年にもわたってうけた。
そのことを書くのが目的ではない。
昔はじめて先生を訪ねたとき、床に曲直分明という大字の軸がかかっていた。
字義どおり曲直分明の楷書の大字で、そこに何の疑のない子供の眼のような字であった。
それが盤珪禅師の書であった。
私が盤珪禅師を覚えたはじめで、禅師の書は後にも先にもこの書以外見たことはなかった。
公田先生は十九のとき、神田の古本屋でこれを発見して十九円で買われたという。
余程ほしかったとみえて、食事を節して金を作ったといわれた。
先生は盤珪というのはえらい坊さんで、黄檗の隠元禅師が中国から来て長崎に上陸したときそこに居合わせて、隠元が舟から陸に足をかけたときに、これは大した坊主ではないと見抜いた人だといった。
先生のいうには、そのころ日本にも修行をつんだ坊さんがたくさんいた。
しかし隠元などは文章とか弁舌の立派さで人を惹いたのだといった。
また本当の坊さんというものは、そう世の中に出たがらなかったからといった。
やはり公田先生のごときものであったろう。
盤珪禅師の法語はそれから読んだ。
(『中川一政全文集』七巻13p~14p)
スポンサーサイト