習わざるを伝えしか
- 2022/09/28
- 18:52
気が付けば春からスタートした蒼流庵オンライン易学講座も半年が過ぎ、序卦38番目の火沢睽まで読み進めた。
心なしか初めは緊張の強かった参加者諸氏も幾分ほぐれて来た様子で、こちらとしても少しやり易くなって来たように思う。
と言っても相変わらず御質問は少ないのだが、もしかするとこれは庵主の講義が余りに明晰を究めて疑問の湧く余地が皆無に近いという単純な事実の反映に他ならないのではあるまいか等と調子の良いことを考えてもいる。
冗談はさて置き、全体的な印象として、昨年お相手した獣医師の女性ほどに熱心という感じではないのだけれど(なにせ昨年は週一の講座頻度、つまり今年度の倍のペースであったにも拘らず、テキストは毎度5~6回読み返して次回に臨んで下さっていた)、対面での個人教授とオンラインでの多人数聴講を同列に比較するのは酷というものだろう。
語学学習は自腹で雇った先生に個人教授で習うのが一番効率が良いという話を自身の体験談をもとに説いていたのは、たしか昨年物故されたジャーナリストの立花隆氏(1940~2021)だったと記憶しているけれど、考えてみれば和文に読み下しているとは言え、『易経』だって元は支那の古文に違いないから、これも或る種の外国語学習に通ずるものがあると言えぬことはない。
ところで、しばらく公田連太郎特集の為に古新聞やら画家の全集やら普段紐解かぬ種類の資料と格闘したけれど、終生“学者”ではなく“学生”を以て自ら任じた公田翁の学問の態度に改めて感銘を受けた。
殊にどれだけ請われても終ぞ『論語』を講じることを峻拒したという話が様々な人の口から語られているが、これなど私のとりわけ好きなエピソードの一つである。
『論語』と言えば、私自身は意釈を二三度斜め読みした程度の取るに足りぬ読者に過ぎないが、複数人に易を講じるという人生初めての経験の只中にあって、学而篇第一の四で曾子が語る“三省吾身”の最後「習わざるを伝えしか」(自分がまだ充分に理解していないことを、口先だけで人に教えたりしなかっただろうか)を日々反芻している。
もとより他の二省「人の為に謀りて忠ならざるか」「朋友と交わりて信ならざるか」が心許ないこと申すまでもない。
心なしか初めは緊張の強かった参加者諸氏も幾分ほぐれて来た様子で、こちらとしても少しやり易くなって来たように思う。
と言っても相変わらず御質問は少ないのだが、もしかするとこれは庵主の講義が余りに明晰を究めて疑問の湧く余地が皆無に近いという単純な事実の反映に他ならないのではあるまいか等と調子の良いことを考えてもいる。
冗談はさて置き、全体的な印象として、昨年お相手した獣医師の女性ほどに熱心という感じではないのだけれど(なにせ昨年は週一の講座頻度、つまり今年度の倍のペースであったにも拘らず、テキストは毎度5~6回読み返して次回に臨んで下さっていた)、対面での個人教授とオンラインでの多人数聴講を同列に比較するのは酷というものだろう。
語学学習は自腹で雇った先生に個人教授で習うのが一番効率が良いという話を自身の体験談をもとに説いていたのは、たしか昨年物故されたジャーナリストの立花隆氏(1940~2021)だったと記憶しているけれど、考えてみれば和文に読み下しているとは言え、『易経』だって元は支那の古文に違いないから、これも或る種の外国語学習に通ずるものがあると言えぬことはない。
ところで、しばらく公田連太郎特集の為に古新聞やら画家の全集やら普段紐解かぬ種類の資料と格闘したけれど、終生“学者”ではなく“学生”を以て自ら任じた公田翁の学問の態度に改めて感銘を受けた。
殊にどれだけ請われても終ぞ『論語』を講じることを峻拒したという話が様々な人の口から語られているが、これなど私のとりわけ好きなエピソードの一つである。
『論語』と言えば、私自身は意釈を二三度斜め読みした程度の取るに足りぬ読者に過ぎないが、複数人に易を講じるという人生初めての経験の只中にあって、学而篇第一の四で曾子が語る“三省吾身”の最後「習わざるを伝えしか」(自分がまだ充分に理解していないことを、口先だけで人に教えたりしなかっただろうか)を日々反芻している。
もとより他の二省「人の為に謀りて忠ならざるか」「朋友と交わりて信ならざるか」が心許ないこと申すまでもない。
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