相良知安~医と易~
- 2022/10/04
- 18:16
佐賀新聞社から出ている相良知安の評伝は、「医と易」なる副題に釣られて、てっきり医易学関連の内容と勘違いした結果手にした書籍であるが、明治初期の医療行政の中枢に居た医系技官が失脚して市井の易者になったという意味での「医と易」なのであった。
紛らわしい副題と言う他ないが、我が国の西洋医学導入の歴史にとんと疎い庵主にはそれなりに啓発されるところ少なからぬ本であったことを白状しておく。
相良知安(1836~1906)は、鍋島藩医 相良柳庵の子として佐賀城下八戸町に生まれ、嘉永四年(1851)に藩校弘道館に入学、其の後、蘭学寮、医学寮に学んで、文久元年(1861)に江戸遊学を命ぜられたが、佐倉順天堂に学んだ時代には塾頭の地位を与えられたというから余程抜きんでたものがあったのであろう。
文久三年(1863)には長崎遊学を命じられて慶応三年(1867)まで滞在、前半は精得館でボードイン(1822~1885)に、後半は蕃学稽古所でフルベッキ(1830~1898)に師事している(同稽古所では若き日の大隈重信や副島種臣らも学んでいる)。
明治時代が開幕すると知安は新政府に出仕、学校権判事や医学校取調御用掛等の役職を歴任し、新しい医療制度の確立に大きく関わることになるが、当時の政府がイギリス医学の導入に傾斜し、福沢諭吉もイギリス医学の導入を支持していた中、順天堂時代の学友であった元福井藩医 岩佐純(1835~1912)と共にドイツ医学の採用を主張、奮闘の甲斐あって、明治三年にはドイツ医学採用が決定し、ドイツから二名の医師が招かれることになった。
一昔前の医者はカルテをドイツ語で書いたが、知安が居なければ、其の後の我が国の医療制度は全く違ったものとなっていた訳だ。
しかし、ドイツ医学の導入に際し、知安は政府要人と激しく対立した結果、恨みを買うこととなり、明治三年九月十三日に部下の公金横領に連座して逮捕され、翌年十二月に無罪を言い渡され釈放されるまで一年二か月もの間、拘留を余儀なくされた。
明治五年、再び文部省に出仕の命が下り、初代医務局長および築造局長に第一大学区医学校校長(現在の東大医学部長)を兼務し、校務をも担うこととなったが、翌年罷免されて閑職へと追いやられた(後任長与専斎)。
明治八年以降は官界から退いて市井の易者として生計を立てるようになり、明治十八年に文部省御用掛となって編輯局に短い期間勤務した他は、後半の人生を貧民窟然とした長屋に愛人のサダ(郷里には万延元年に結婚した九歳年下の妻を残し、この妻は昭和三年まで存命であったようだ)と住し、明治三十九年、インフルエンザに罹患して世を去る。
死後、明治天皇からの「祭粢料」を持参して勅使が長屋を訪れた際、近隣住民は貧乏易者がかつての政府高官であったことを知るに至り、驚いたという。
初めに書いたように、明治初期の医療行政について無知な庵主は、其の点で本書に教えられるところも多かったが、漢学に関する著者の知識はかなり御粗末で、副題に「医と易」とあるにも拘らず、易学の方が相当お寒い状況であるのは頂けない。
略筮法が「略式筮法というイメージであり、正式なやり方である本筮法・中筮法の一部分を省いた方式で、省いても支障のないところを省いている方式」(128p)等と書いては初心者にさえ笑われよう。
また、「略筮法のやり方については、『易経』に載っているので、細かいことはここでは省略したい」(129p)と軽く済まされても困る。
巻末の「あとがき」によると日本易学連合会発行の『日本易道タイムス』に連載されたものをもとに加筆修正したとあり、“『易経』に四十年”関わってきたとあるのだが、一体全体どんな関わり方をしたのだろうか。
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