名を好む心は学問の大魔なり
- 2022/10/11
- 18:33
中根東里墓(顕正寺/横須賀市東浦賀2-1-1)
“南総之力”をゲットした翌日、横須賀は東浦賀の顕正寺に中根東里(1694~1765)の墓所を訪ねた。
江戸中期の陽明学者で、若い頃、徂徠の門にも学んだことがある人である。
伊豆下田の生まれで、名は若思、字は敬父(敬夫)、通称を貞右衛門といい、東里と号した。
幼児に父を失った後、出家して宇治萬福寺の悦山道宗(1629~1709)に参じたが、正徳年間、江戸に出て荻生徂徠に師事し、のち室鳩巣に入門、朱子学を修め、のち陽明学に転じた。
深川八幡宮前に住し、享保末年には下野植野に赴き、宝龍寺境内に知松庵を結んで陽明学を講じた。
墓所のある浦賀は晩年に住んだ土地である。
“名を好む心は学問の大魔なり”は幾つか知られる東里の名言の中でも取り分け心に響くもので、私には乾為天初九に附された文言伝の一節「世を易えず、名を成さず、世を遯れて悶ゆること无し」を地で行くような人物だったように思われる。
名を好む心の持ち主は矢鱈に本を書こうとするけれど、東里の著作と言えば、五十三歳の時、弟より引き取った三歳の姪に向けて書いた『新瓦』(新しいおもちゃの意)位が殆ど唯一のもので、他には「学則」「壁書」といった書物とは呼び難い僅かな短文がある程度に過ぎない。
心すべきことのように思う。
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