私淑する学者
- 2022/10/15
- 10:46
辻雙明氏(1903~1991)の「公田連太郎先生と黄憲や顔回のことなど」(『禅の道をたどり来て』所収)と題した随想に以下のような一節がある。
公田先生に、ある時わたくしが、「中国においての学者の中で、先生が最も私淑しておられるのは、どういう人ですか」とたずねると、先生は、程明道(『二程語録』)周茂叔(『周子書』)呂新吾(『呻吟語』)王龍渓(『王龍渓全集』)王陽明などの名を挙げられ、私の質問に答えて、それぞれその人の語録を示された。(上記の括弧内に記したものがそれである。)そして最後に、黄憲の名を挙げられた。
私はこれらの諸学者について一家言を開陳できるような学識を生憎持ち合わせていないけれど、一瞥する限り、黄憲は別として、官位に高低の差はあれど孰れも出仕して宮仕えした学者で、公田先生ご自身の歩まれた生き方とは異なった人たちが挙げられているという印象を持った。
王陽明や其の門人の王龍渓が挙がっているところ等、殊に意外な感じがする。
もっとも朝日新聞の森本記者の記事によると、四聖の中では無条件に現世的な孔子とソクラテスを選ぶとあるから、そこから考えれば不思議な人選でも何でもないのかもしれない。
むしろそういう辺りに言い知れない深みを感じるのは私が先生に私淑している故のことであろうか。
ここで自分が支那歴代の儒者のうちから選ぶとしたら、どんな名を挙げるだろうかと考えてみた。
私淑の二字を用いられるほどに研究して其の思想に触れたと言い得る人が一人も居ないのは我が身の浅学ゆえのことだけれど、それは一先ず置くとして、恩人の身内だろうが不正を目にするや徹底的に糾弾して免職に追い込む朱子のような人はやはり好きだし、其の点では鄭玄にも似たようなところがある。
学問的な手法という観点からすれば、閻若璩のような緻密さを感じさせられる手際にはやはり惚れ惚れするところがあるから、清朝の考証学者には惹かれる人が多い。
ところで、王陽明を私淑する学者の一人に挙げた公田先生には『陽明学講話』(山田準氏のものとは同題異著)なる小著があるらしく、国会図書館にも架蔵されていない稀覯書の類で、管見の限りでは日大が一冊持っているだけであるようだ。
私大の図書館は利用がただでさえ面倒で、コロナ以降は殊に一般利用者に嫌がらせ同然の利用制限を課しているが、可能なら近いうちに閲覧の機会を持ちたいと思っている。
公田先生に、ある時わたくしが、「中国においての学者の中で、先生が最も私淑しておられるのは、どういう人ですか」とたずねると、先生は、程明道(『二程語録』)周茂叔(『周子書』)呂新吾(『呻吟語』)王龍渓(『王龍渓全集』)王陽明などの名を挙げられ、私の質問に答えて、それぞれその人の語録を示された。(上記の括弧内に記したものがそれである。)そして最後に、黄憲の名を挙げられた。
私はこれらの諸学者について一家言を開陳できるような学識を生憎持ち合わせていないけれど、一瞥する限り、黄憲は別として、官位に高低の差はあれど孰れも出仕して宮仕えした学者で、公田先生ご自身の歩まれた生き方とは異なった人たちが挙げられているという印象を持った。
王陽明や其の門人の王龍渓が挙がっているところ等、殊に意外な感じがする。
もっとも朝日新聞の森本記者の記事によると、四聖の中では無条件に現世的な孔子とソクラテスを選ぶとあるから、そこから考えれば不思議な人選でも何でもないのかもしれない。
むしろそういう辺りに言い知れない深みを感じるのは私が先生に私淑している故のことであろうか。
ここで自分が支那歴代の儒者のうちから選ぶとしたら、どんな名を挙げるだろうかと考えてみた。
私淑の二字を用いられるほどに研究して其の思想に触れたと言い得る人が一人も居ないのは我が身の浅学ゆえのことだけれど、それは一先ず置くとして、恩人の身内だろうが不正を目にするや徹底的に糾弾して免職に追い込む朱子のような人はやはり好きだし、其の点では鄭玄にも似たようなところがある。
学問的な手法という観点からすれば、閻若璩のような緻密さを感じさせられる手際にはやはり惚れ惚れするところがあるから、清朝の考証学者には惹かれる人が多い。
ところで、王陽明を私淑する学者の一人に挙げた公田先生には『陽明学講話』(山田準氏のものとは同題異著)なる小著があるらしく、国会図書館にも架蔵されていない稀覯書の類で、管見の限りでは日大が一冊持っているだけであるようだ。
私大の図書館は利用がただでさえ面倒で、コロナ以降は殊に一般利用者に嫌がらせ同然の利用制限を課しているが、可能なら近いうちに閲覧の機会を持ちたいと思っている。
スポンサーサイト