小象の稚拙
- 2022/11/13
- 08:54
通行本『周易』は王弼のテキストが元になっており、その王弼本を遡れば費氏古文易に行き着く。
費氏古文易は前漢末頃の費直を祖とする易で、彼の易は十翼を以て『周易』上下経を解することに特徴がある。
従って、この費氏古文易に連なるところの我々が「拠伝解経法」を以て易を解するのは王道と言って差し支えなく、実際二十世紀以降に疑古的解釈が登場するまで、殆どの学者が此の王道に準拠した経学を展開して来た訳であるが、本来卜筮のテキストに過ぎないものを儒家の書物として読むことには所詮無理があって、かなり強引な解を施した為に著しく古義を見失ったばかりか、経義を徒に難解なものにしてしまうという弊害をも生じている。
そもそも、経注であれ義疏であれ、注釈である以上は経文の判り難い部分の理解を容易ならしめる働きをするものでなければならぬ筈だが、注によって訳が分からなくなったり、不要な議論を誘発するというのでは、何の為の注だか分かったものではない。
殊に此の弊害の大きいのが現行本では爻辞に附されている伝、すなわち小象である。
翼伝の中でもコジツケが過ぎるという理由で序卦伝は最も早くに聖人の作に非ざることを疑われているが、私に言わせれば小象も十分に聖人の作とは言い難い稚拙を蔵して居るように感じられてならない。
例えば、水地比初六の「比之初六、有它吉也」や天火同人六二の「同人于宗、吝道也」、火天大有初九「大有初九、无交害也」等は、ただ貧しく爻辞をダイジェストにしてリフレインするのみで、殆ど注釈の体を為しているとは言い難く、无妄六三、大壮九三、損六四、艮為山九三、豊六五なども同様だろう。
また、言われなくとも分かっておるわいと言ってやりたくなるような中正をただ述べるだけの水天需九五型も数え上げれば10か所ではきかない。
上記は聖人でなくても書き得る芸の無さが嘆かわしいばかりで無害と言えば無害だが、徒に新規の議論を生ぜしめるようなものは論外で、幾つか例を挙げるなら、水天需上六の「雖不當位」や艮為山六五の「以中正也」は爻の正不正の基準からすれば明らかにおかしいし、水山蹇六四の「當位實也」や火風鼎六五の「中以為實也」も陰爻に附すにはヘン、地沢臨九二の「未順命也」は前後で意味が疎通し難い、という具合に。
これらに対して、或る注家は文字の脱落や錯簡有るを疑い、文字を改めるべきでないとする諸本は相当強引な注を附けて無理やりに解し、淡泊な朱子は屡々「未詳」の二字であっさりと解決を放棄しようとする。
私などはこんな注なら附けないほうがマシだと思うが、果たしてどうか。
もっとも、筆写の際に脱落や誤字が生じて原形が損なわれているとしたら、それは筆者の罪ではない。
しかし、経文以上におかしな点が目に付くように思われる小象はやはり「少々」おかしいのではないか。
そんな風に常々感じているので、私は講座の受講者諸氏には、どうせ元々儒家のテキストでないものを儒家者流に読んでいるのだから、意味不明だと感じたなら、そこは捨ててしまっても構わないという風にお話している。
経学の立場からすれば怪しからぬ発言となる訳だが、私は経学者ではないし、受講者諸氏も経学を求めている訳ではないだろうから、これくらいの態度で臨むのが丁度良い、そう私は信じているのである。
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