校勘資料としての馬王堆帛書『周易』
- 2022/11/19
- 14:22
筆写によってのみ伝わる時代の長かった古典籍には、必ず伝写の際に生じた誤字脱字が累積し、結果として同一の書物にも幾つかの系統が生じて来ることになる。
それら諸本間の異同を補正して質の高いテキストを得ようと試みる作業が所謂「校勘」で、『周易』の場合、主として用いられるのは『李氏集解』や『経典釈文』、『熹平石経』辺りであろうか。
しかし、ここ数十年、中国では大量の出土資料が現れており、可能であれば直接に古いテキストを目にすることで、歴代諸家が戦わせてきた文字の議論に終止符を打ちたい、と思うのが人情というものである。
とは言え、意外に使い物になる資料は少ないもので、最近矢鱈に論じられる数字卦など甲骨類に夥しく見出されるようになったけれど、殆どは経文を伴わないから使いようもないし、戦国簡の類も多くは出土状況不明の盗掘品というのでは寄りかかるに一抹の不安が過ぎるというものだろう。
そんな中にあって、20世紀に限って言えば中国の出土資料中の最大の発見(殷墟の甲骨群は古典籍とは余り接続しないので除く)と見做し得る馬王堆漢墓出土の帛書類は、出土状況が明らかな上に、『周易』の経文がほぼ完備しているという点で隔絶した存在と言う他ない。
ただし、実際にこれを校勘に用いてみると、期待した程には役に立たないことが分かって来る。
先に述べたような小象のおかしな箇所は、馬王堆から彖象伝が出ていない以上、手を出せないし、『李氏集解』が「子夏伝は大人に作る」とする地水師卦辞の「丈人」は、残念ながら帛書本の肝心の箇所が欠損していて確かめられないし、程朱以下多くが従っている火風鼎卦辞の吉字衍字説(元吉亨は元亨の誤りとする説で、昭和では今井宇三郎本や本田済本が之に従う)も同様。
また、綺麗に保存されている箇所でも、校勘の役に立つどころか、反って混乱させられるものもあって、例えば坎為水六三の「險且枕」の「枕」字は古本では「沈」になっていたといい、昭和の易書では今井本・本田本・赤塚本・三浦本は「沈」に改めて「ますます深みに入る」の意とするが、帛書本では「訦」に作ってあり、孰れの説とも一致しない。
火風鼎九四の「形渥」の「渥」字を、鄭玄・京房・荀悦・鄭玄、虞翻らの古注本は皆「屋+リ」に作って「重刑に処せられる」意とし、今井本・鈴木本・加藤本・赤塚本が之に従っているが、帛書本では「屋」になっていて、決着をつける決め手にはなることが出来ない(同音の文字を借りて来て記すことは古文には頻繁に見られるので、一概に間違いとは言えないが、校勘の役に立たないという点では大差ない)。
勿論、帛書本の文字が決定打になるものもある。
三浦本以外は皆通行本に従っている火地晋六五の「失得」の「失」字は、孟・荀・馬・鄭・虞の諸家みな「矢」を用いており、帛書本も同様であることから「矢」が本来であると考えて間違いないようだ。
また、沢地萃卦辞「萃亨王假有廟」の「亨」字は、魏の王粛本にのみあったものが王弼の採用するところとなった結果、通行本に入ったのであり、程朱はじめ殆どの人が衍字説を是とするが、帛書本には無いので、これはもう決定的である。
出土地である楚の方音を色濃く反映していると言われる帛書『周易』には通行本と異なる文字も多く散見され、飽くまでも漢初の一テキストであって、必ずしも『周易』の古態そのものとイコールで結ぶことは出来ない訳だが、経文に加えて繋辞伝もほぼ備わった紀元前の資料であるという点で、未だ其の価値を失ってはいない。
なお、私は生憎未だ手に出来ていないが、最近になって「馬王堆出土文献訳注叢書」に収められて帛書本が手軽に参照出来るようになったらしいことは誠に喜ばしい。
私は長らく『馬王堆帛書周易経伝釈文』(廖名春)と『長沙馬王堆漢墓簡帛集成』(今回掲載した画像は全てここからのもの)のお世話になって来たが、正直不便なこと此の上なかった。
それら諸本間の異同を補正して質の高いテキストを得ようと試みる作業が所謂「校勘」で、『周易』の場合、主として用いられるのは『李氏集解』や『経典釈文』、『熹平石経』辺りであろうか。
しかし、ここ数十年、中国では大量の出土資料が現れており、可能であれば直接に古いテキストを目にすることで、歴代諸家が戦わせてきた文字の議論に終止符を打ちたい、と思うのが人情というものである。
とは言え、意外に使い物になる資料は少ないもので、最近矢鱈に論じられる数字卦など甲骨類に夥しく見出されるようになったけれど、殆どは経文を伴わないから使いようもないし、戦国簡の類も多くは出土状況不明の盗掘品というのでは寄りかかるに一抹の不安が過ぎるというものだろう。
そんな中にあって、20世紀に限って言えば中国の出土資料中の最大の発見(殷墟の甲骨群は古典籍とは余り接続しないので除く)と見做し得る馬王堆漢墓出土の帛書類は、出土状況が明らかな上に、『周易』の経文がほぼ完備しているという点で隔絶した存在と言う他ない。
ただし、実際にこれを校勘に用いてみると、期待した程には役に立たないことが分かって来る。
先に述べたような小象のおかしな箇所は、馬王堆から彖象伝が出ていない以上、手を出せないし、『李氏集解』が「子夏伝は大人に作る」とする地水師卦辞の「丈人」は、残念ながら帛書本の肝心の箇所が欠損していて確かめられないし、程朱以下多くが従っている火風鼎卦辞の吉字衍字説(元吉亨は元亨の誤りとする説で、昭和では今井宇三郎本や本田済本が之に従う)も同様。
地水師卦辞
また、綺麗に保存されている箇所でも、校勘の役に立つどころか、反って混乱させられるものもあって、例えば坎為水六三の「險且枕」の「枕」字は古本では「沈」になっていたといい、昭和の易書では今井本・本田本・赤塚本・三浦本は「沈」に改めて「ますます深みに入る」の意とするが、帛書本では「訦」に作ってあり、孰れの説とも一致しない。
坎為水六三
火風鼎九四の「形渥」の「渥」字を、鄭玄・京房・荀悦・鄭玄、虞翻らの古注本は皆「屋+リ」に作って「重刑に処せられる」意とし、今井本・鈴木本・加藤本・赤塚本が之に従っているが、帛書本では「屋」になっていて、決着をつける決め手にはなることが出来ない(同音の文字を借りて来て記すことは古文には頻繁に見られるので、一概に間違いとは言えないが、校勘の役に立たないという点では大差ない)。
勿論、帛書本の文字が決定打になるものもある。
三浦本以外は皆通行本に従っている火地晋六五の「失得」の「失」字は、孟・荀・馬・鄭・虞の諸家みな「矢」を用いており、帛書本も同様であることから「矢」が本来であると考えて間違いないようだ。
火地晋六五
また、沢地萃卦辞「萃亨王假有廟」の「亨」字は、魏の王粛本にのみあったものが王弼の採用するところとなった結果、通行本に入ったのであり、程朱はじめ殆どの人が衍字説を是とするが、帛書本には無いので、これはもう決定的である。
沢地萃卦辞
出土地である楚の方音を色濃く反映していると言われる帛書『周易』には通行本と異なる文字も多く散見され、飽くまでも漢初の一テキストであって、必ずしも『周易』の古態そのものとイコールで結ぶことは出来ない訳だが、経文に加えて繋辞伝もほぼ備わった紀元前の資料であるという点で、未だ其の価値を失ってはいない。
なお、私は生憎未だ手に出来ていないが、最近になって「馬王堆出土文献訳注叢書」に収められて帛書本が手軽に参照出来るようになったらしいことは誠に喜ばしい。
私は長らく『馬王堆帛書周易経伝釈文』(廖名春)と『長沙馬王堆漢墓簡帛集成』(今回掲載した画像は全てここからのもの)のお世話になって来たが、正直不便なこと此の上なかった。
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