経と伝
- 2022/11/25
- 18:22
現在、私達が手にする『易経』のテキストを紐解けば、文言伝のくっついている乾為天と坤為地を除き、序卦の順に並んだ一連の大成卦は、卦辞・彖伝・大象伝に続いて爻辞と小象伝とが交互に配される構成になっていて、火水未済以降に残りの翼伝が載っており、かかる配列に改変した下手人がなんびとであるかは不明ながら、費直・鄭玄・王弼の三説があることは以前記事にしたことがある。
改変の理由が単純な読者側の利便にあることは容易に推察出来るが、かかる体裁をとるようになった結果として、殊に初心者の場合、どれが本文でどれが注の部分であるのかが分かりにくく見えるようになったということがあるようだ。
勿論、本文たる“経”の部分と、孔子が附したとされる注解すなわち“翼伝”の部分とは、同一ではない。
しかし、どうも経と伝とは相当早くから不可分というか等しい扱いを受けていたように思われるのである。
一例を挙げる。
『易経』という表現は宋代以降一般化するが、それ以前にも無かった訳ではなく、『漢書』芸文志に「易経十二篇,施・孟・梁丘三家」とあり、唐の顔師古は此の“十二篇”について上下経+十翼だと言っている。
勿論これは顔師古の当て推量で、芸文志に収載されたテキストの現物を見て言っている訳ではないが、孰れにせよ顔師古が『易経』十二篇の内に十翼が含まれると考えたことだけは確かなようだ。
また、同じく『漢書』の律暦志や郊祀志、五行志は、「易に曰く」と前置きして繋辞伝や大象伝の文を何か所にも引くが、ここからも翼伝は殆ど経文と同列に扱われていることが看取されるのである。
『漢書』のこれらの篇は劉歆の思想を濃厚に反映しているのだけれども、その父である劉向の『説苑』にも繋辞伝や彖伝、小象伝の一節が「易に曰く」として数多く引かれるし、もっと古い劉安『淮南子』でさえ同様に「易に曰く」と前置きして序卦伝の変形と思しき「之を剝すれど遂に尽すべからず。故に之を受くるに復を以てす」の文を載せる。
これらを見る限り、経文と翼伝は孰れも「易に曰く」で引用されている訳だから、経と伝とは等級の差を設けずに取り扱われていたと理解して良さそうである。
更に言えば、「易に曰く」として引用されるのは翼伝ばかりではない。
今日では甚だ怪しげなものとして扱われる所謂「易緯」の類も同様に『史記』『礼記』『新書』では「易に曰く」として引かれていることを付け加えておこう(殆どは『易緯通卦験』の「之を毫釐に失わば、之を千里に差う」)。
もっとも建前として、「緯書」は経書の“経”=縦糸に対する横糸という位置付けで書かれており、縦糸と横糸であるから、それらは同様の価値を持つものとして考えられたとて不思議ではない。
時代が下がると、孔子は聖人として文王や周公に何等劣らぬ人物と見做されるようになるから、その大聖人の書いた注が本文と同等の扱いを当然の如くに受けたことは不思議な事ではないように思われる。
改変の理由が単純な読者側の利便にあることは容易に推察出来るが、かかる体裁をとるようになった結果として、殊に初心者の場合、どれが本文でどれが注の部分であるのかが分かりにくく見えるようになったということがあるようだ。
勿論、本文たる“経”の部分と、孔子が附したとされる注解すなわち“翼伝”の部分とは、同一ではない。
しかし、どうも経と伝とは相当早くから不可分というか等しい扱いを受けていたように思われるのである。
一例を挙げる。
『易経』という表現は宋代以降一般化するが、それ以前にも無かった訳ではなく、『漢書』芸文志に「易経十二篇,施・孟・梁丘三家」とあり、唐の顔師古は此の“十二篇”について上下経+十翼だと言っている。
勿論これは顔師古の当て推量で、芸文志に収載されたテキストの現物を見て言っている訳ではないが、孰れにせよ顔師古が『易経』十二篇の内に十翼が含まれると考えたことだけは確かなようだ。
また、同じく『漢書』の律暦志や郊祀志、五行志は、「易に曰く」と前置きして繋辞伝や大象伝の文を何か所にも引くが、ここからも翼伝は殆ど経文と同列に扱われていることが看取されるのである。
『漢書』のこれらの篇は劉歆の思想を濃厚に反映しているのだけれども、その父である劉向の『説苑』にも繋辞伝や彖伝、小象伝の一節が「易に曰く」として数多く引かれるし、もっと古い劉安『淮南子』でさえ同様に「易に曰く」と前置きして序卦伝の変形と思しき「之を剝すれど遂に尽すべからず。故に之を受くるに復を以てす」の文を載せる。
これらを見る限り、経文と翼伝は孰れも「易に曰く」で引用されている訳だから、経と伝とは等級の差を設けずに取り扱われていたと理解して良さそうである。
更に言えば、「易に曰く」として引用されるのは翼伝ばかりではない。
今日では甚だ怪しげなものとして扱われる所謂「易緯」の類も同様に『史記』『礼記』『新書』では「易に曰く」として引かれていることを付け加えておこう(殆どは『易緯通卦験』の「之を毫釐に失わば、之を千里に差う」)。
もっとも建前として、「緯書」は経書の“経”=縦糸に対する横糸という位置付けで書かれており、縦糸と横糸であるから、それらは同様の価値を持つものとして考えられたとて不思議ではない。
時代が下がると、孔子は聖人として文王や周公に何等劣らぬ人物と見做されるようになるから、その大聖人の書いた注が本文と同等の扱いを当然の如くに受けたことは不思議な事ではないように思われる。
スポンサーサイト