重修緯書集成
- 2022/11/28
- 18:15
漢文を読むのに特有の句法や品詞の排列法等に習熟する必要があるのは言を俟たないけれど、それ以前に当該分野の熟語を知らないとどうにもならないのは、『漢書』の「顔師古曰」を顔師古が人名と知らない学生が「顔、古えを師として曰く」などと読んでしまった笑い話に明らかであろう。
もっとも、この手の話は未熟な学生だけを笑ってすませられる手合のものではない。
以前、明徳出版社の『重修緯書集成』シリーズにおける易緯の巻を紐解いてみた際、その事を痛感させられたことがある。
赤で囲った箇所の何がどうおかしいのか、恐らく易学にのみ関心がおありで拙ブログを読んで下さっている方にはよく判らないと思うけれど、支那の伝統医学を少しでも知っている人なら直ちに私の言わんとしているところを諒解されるに違いない。
句読を附した人は、例えば一番最初に挙げた個所の場合「人の足の太陰の脈盛り」と読むべきところを「人の足が太く、陰脈盛り」と読んでしまっているのである。
これが人体の経脈の名称「太陽経」とか「少陽経」「太陰経」といったものを指していることは私のような鍼灸の知識に乏しいものでさえ分るのだが、医学のことを全く知らない人が読んだ為に、自身の常識に照らして読める範囲で区切ってしまった訳だ。
この読みで行けば、大根足だと陰脈が盛んになるという意味になるし、同様に腕が太くても陰脈が盛んになると解することになるが、三枚目の「人足少」はどのように読むつもりだったのだろうか(事故か何かで片足がもがれでもすれば足の本数が少ないということはあり得ぬことではないけれど)。
“すでに上巻の「あとがき」でも述べておいたように、易緯は、錯簡や脱誤の多い資料であり、その内容も難解なため、句読するのに苦労した。それだけに、われわれの錯誤も多いことと思っている。誰かが句読せねばという考えで、正直な所、千載の恥を忍んでやった所も多い。命のある限り補訂していく積りであるが、江湖の教示を切に仰ぎたい”とあって、恐る恐るの作業であったことは十分に窺われるが、当該箇所は誰が見ても医学を論じた内容であることは明らかだから、ここは少しでも識者の校閲を仰ぐべきであったと言う他なかろう。
もっとも、この手の話は未熟な学生だけを笑ってすませられる手合のものではない。
以前、明徳出版社の『重修緯書集成』シリーズにおける易緯の巻を紐解いてみた際、その事を痛感させられたことがある。
赤で囲った箇所の何がどうおかしいのか、恐らく易学にのみ関心がおありで拙ブログを読んで下さっている方にはよく判らないと思うけれど、支那の伝統医学を少しでも知っている人なら直ちに私の言わんとしているところを諒解されるに違いない。
句読を附した人は、例えば一番最初に挙げた個所の場合「人の足の太陰の脈盛り」と読むべきところを「人の足が太く、陰脈盛り」と読んでしまっているのである。
これが人体の経脈の名称「太陽経」とか「少陽経」「太陰経」といったものを指していることは私のような鍼灸の知識に乏しいものでさえ分るのだが、医学のことを全く知らない人が読んだ為に、自身の常識に照らして読める範囲で区切ってしまった訳だ。
この読みで行けば、大根足だと陰脈が盛んになるという意味になるし、同様に腕が太くても陰脈が盛んになると解することになるが、三枚目の「人足少」はどのように読むつもりだったのだろうか(事故か何かで片足がもがれでもすれば足の本数が少ないということはあり得ぬことではないけれど)。
“すでに上巻の「あとがき」でも述べておいたように、易緯は、錯簡や脱誤の多い資料であり、その内容も難解なため、句読するのに苦労した。それだけに、われわれの錯誤も多いことと思っている。誰かが句読せねばという考えで、正直な所、千載の恥を忍んでやった所も多い。命のある限り補訂していく積りであるが、江湖の教示を切に仰ぎたい”とあって、恐る恐るの作業であったことは十分に窺われるが、当該箇所は誰が見ても医学を論じた内容であることは明らかだから、ここは少しでも識者の校閲を仰ぐべきであったと言う他なかろう。
スポンサーサイト