多田鳴鳳を求めて
- 2022/12/04
- 10:07
少し前、日易連の藤懸専務理事より江戸時代の多田鳴鳳なる家相家について照会があった。
なんでも気学家の多い関東では望月治先生を経由する形で多田鳴鳳が浸透しているとのこと。
生憎家相に関する知識は殆ど持ち合わせていない為、其の時は何らお答えする術を持たなかったのだが、どこかで見た名前だと思い調べてみると、四天王寺の易学供養塔に最初期に合祀者されたうちの一人で、「江戸時代方鑑家先師」として、松浦琴鶴・松浦東鶏と並んで其の名が挙げられている。
興味が出てきたので更に詳しく調べてみる気になったのだが、web上には殆ど情報らしい情報があがっていない。
ウィキペディアにも独立して扱う頁が設けられているが、生没年さえ不詳となっており、幾つかの書名が挙げられている他には土御門家の直弟子であるらしいということが僅かに窺われるのみなのである。
そこで、先ずはどのような著述があるのか、国会図書館サーチで検索してみたところ、20世紀に入ってからも複数回復刻されていることが分かった。
最近でも気学家を中心に読まれているというのは本当らしい。
新しいところでは、2002年に八幡書店が『地相家相方位吉凶』を、2005年にも鴨書店から『三要竒書方鑒秘竅制化要法秘傳』が出ていて、直近では昨夏に“究極の方位・神殺の必読書”と銘打って『三要奇書方鑑秘竅制化要法秘傳』の新訳が出ているようだ。
一応中身に目を通したいところだが、興味のない方鑑書を自腹で購入するのは御免蒙るので思案していたところ、国会図書館デジタルコレクションにて『洛地準則』なる書物を閲覧出来ることが分かったので、何とはなしに眺め見ていたら、本文の初めに「淡州 鳴鳳」とあり、同州の他に阿州、讃州、備前の門人の名が挙げられているのが目に留まった。
「淡州」は現在の淡路島のことである。
校訂に拘った高弟と思しき門人らが淡路や香川、徳島、備前に跨っていることを考えると、瀬戸内近辺が主要な活躍の場であったと考えてよさそうだ。
淡路島の人であれば、地方史に何か手掛かりが残されていないものかと、県立図書館にレファレンス依頼を出したところ、程なくして多田鳴鳳に関する記述を載せる郷土資料を列挙するメールが送られてきた。
其の中でも殊に詳細に記述していたのは1974年刊行の『洲本市史』で、そこには生没年を含め、多くの情報が載せられていた。
それによると、多田鳴鳳は安坂村の庄屋で、天明四年(1784)に生まれ、幼名を千代治、包助または侶助といい、鳴鳳・国華・六合斎・洋々斎などの号を用いた。
本業が庄屋というのはこれまでにないパターンだが狂歌もたくみで、溜池の新築、修築で農業の振興に努め、また官命で農争を調停することが何度もあったという。
家相やら何やらは田舎の金持ちの道楽といった感じだったのだろうか。
藤江石亭に学んだのち、司天監・安倍朝臣の直弟子となって、陰陽、家相、易学を学び、『洛地準則』など数冊の著述があり、其の中には刊本ではなかったようだが『周易霊櫃一巻』が挙げられていて、一応私のライフワークである易儒の一人にカウントしても良い人のように思われる。
残念ながら現在(1974年当時)は絶家とあり、掃苔は恐らく絶望だろうと思ったが、ひと月ほど前に姫路へ行った際、ダメ元で突撃してやろうと明石大橋を渡ってみることにした。
最初の手掛かりは、師であったという藤江石亭(1741~1815)である。
徳島藩洲本学問所(恥ずかしながら昔は淡路は兵庫ではなく徳島の一部であったことをこれまで知らずに居た)の教官となり、淡路一の碩学と謳われた人といい、洲本市の千福寺遍照院に今も其の墓碑を見ることが出来ると知って、まずはここに目星をつけた。
師と同じ場所に自らも眠ることを希望する門人というのは少なくないので、同院をまずは調査することにした訳である。
しかし、残念ながらそれらしいものは見つからず、住職夫人の話でもそのような墓碑は話に聞いたこともないという。
取り敢えず、ここではないと判断し、庄屋をしていたという安坂村、いまは洲本市中川原町安坂となっている地域を散策してみることにした。
実は庄屋という職業柄、遍照院に墓碑がある可能性は端から低いだろうと考え、衛星を駆使して何か所か目星をつけていたのである。
田舎では、山中に一族だけの墓所を構えることが珍しくなく、そのような場所は木々に覆われて衛星では窺い知ることが出来ないので厄介なのだが、なんと今回は掃苔の女神がほほ笑んだようで、二か所目で目当ての墓碑を発見することが出来た。
無縁墓域の中に押し込められてはいるものの、碑刻もはっきり読み取ることが出来、また裏面の命日も『洲本市史』の記述と合致するので、これはもう断定して良かろう。
年々掃苔の機会は減少しているが、まだまだ腕は衰えていないようだ。
なんでも気学家の多い関東では望月治先生を経由する形で多田鳴鳳が浸透しているとのこと。
生憎家相に関する知識は殆ど持ち合わせていない為、其の時は何らお答えする術を持たなかったのだが、どこかで見た名前だと思い調べてみると、四天王寺の易学供養塔に最初期に合祀者されたうちの一人で、「江戸時代方鑑家先師」として、松浦琴鶴・松浦東鶏と並んで其の名が挙げられている。
興味が出てきたので更に詳しく調べてみる気になったのだが、web上には殆ど情報らしい情報があがっていない。
ウィキペディアにも独立して扱う頁が設けられているが、生没年さえ不詳となっており、幾つかの書名が挙げられている他には土御門家の直弟子であるらしいということが僅かに窺われるのみなのである。
そこで、先ずはどのような著述があるのか、国会図書館サーチで検索してみたところ、20世紀に入ってからも複数回復刻されていることが分かった。
最近でも気学家を中心に読まれているというのは本当らしい。
新しいところでは、2002年に八幡書店が『地相家相方位吉凶』を、2005年にも鴨書店から『三要竒書方鑒秘竅制化要法秘傳』が出ていて、直近では昨夏に“究極の方位・神殺の必読書”と銘打って『三要奇書方鑑秘竅制化要法秘傳』の新訳が出ているようだ。
一応中身に目を通したいところだが、興味のない方鑑書を自腹で購入するのは御免蒙るので思案していたところ、国会図書館デジタルコレクションにて『洛地準則』なる書物を閲覧出来ることが分かったので、何とはなしに眺め見ていたら、本文の初めに「淡州 鳴鳳」とあり、同州の他に阿州、讃州、備前の門人の名が挙げられているのが目に留まった。
「淡州」は現在の淡路島のことである。
校訂に拘った高弟と思しき門人らが淡路や香川、徳島、備前に跨っていることを考えると、瀬戸内近辺が主要な活躍の場であったと考えてよさそうだ。
淡路島の人であれば、地方史に何か手掛かりが残されていないものかと、県立図書館にレファレンス依頼を出したところ、程なくして多田鳴鳳に関する記述を載せる郷土資料を列挙するメールが送られてきた。
其の中でも殊に詳細に記述していたのは1974年刊行の『洲本市史』で、そこには生没年を含め、多くの情報が載せられていた。
それによると、多田鳴鳳は安坂村の庄屋で、天明四年(1784)に生まれ、幼名を千代治、包助または侶助といい、鳴鳳・国華・六合斎・洋々斎などの号を用いた。
本業が庄屋というのはこれまでにないパターンだが狂歌もたくみで、溜池の新築、修築で農業の振興に努め、また官命で農争を調停することが何度もあったという。
家相やら何やらは田舎の金持ちの道楽といった感じだったのだろうか。
藤江石亭に学んだのち、司天監・安倍朝臣の直弟子となって、陰陽、家相、易学を学び、『洛地準則』など数冊の著述があり、其の中には刊本ではなかったようだが『周易霊櫃一巻』が挙げられていて、一応私のライフワークである易儒の一人にカウントしても良い人のように思われる。
残念ながら現在(1974年当時)は絶家とあり、掃苔は恐らく絶望だろうと思ったが、ひと月ほど前に姫路へ行った際、ダメ元で突撃してやろうと明石大橋を渡ってみることにした。
最初の手掛かりは、師であったという藤江石亭(1741~1815)である。
徳島藩洲本学問所(恥ずかしながら昔は淡路は兵庫ではなく徳島の一部であったことをこれまで知らずに居た)の教官となり、淡路一の碩学と謳われた人といい、洲本市の千福寺遍照院に今も其の墓碑を見ることが出来ると知って、まずはここに目星をつけた。
師と同じ場所に自らも眠ることを希望する門人というのは少なくないので、同院をまずは調査することにした訳である。
しかし、残念ながらそれらしいものは見つからず、住職夫人の話でもそのような墓碑は話に聞いたこともないという。
取り敢えず、ここではないと判断し、庄屋をしていたという安坂村、いまは洲本市中川原町安坂となっている地域を散策してみることにした。
実は庄屋という職業柄、遍照院に墓碑がある可能性は端から低いだろうと考え、衛星を駆使して何か所か目星をつけていたのである。
田舎では、山中に一族だけの墓所を構えることが珍しくなく、そのような場所は木々に覆われて衛星では窺い知ることが出来ないので厄介なのだが、なんと今回は掃苔の女神がほほ笑んだようで、二か所目で目当ての墓碑を発見することが出来た。
無縁墓域の中に押し込められてはいるものの、碑刻もはっきり読み取ることが出来、また裏面の命日も『洲本市史』の記述と合致するので、これはもう断定して良かろう。
年々掃苔の機会は減少しているが、まだまだ腕は衰えていないようだ。
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