河盛好蔵先生
- 2023/01/04
- 15:11
昔は正月と言えば、チャールトン・ヘストンの『十戒』がそれこそ何十回となく放映されていたような気がするが、気が付けば長らく観た記憶が無い。
その代りに深夜に放映される映画と来たら『ターミネーター3』だの『ジョン・ウィック』だのと、撃ち合いばかりでうんざりさせられる。
テレビ屋は三が日に夜更かししているような手合いはどうせ撃ち合いしか観ないものと馬鹿にしているのだろうか。
そうまでしてC級映画にお付き合いする義理もないので、文化人の端くれを自任する者は時間がないと取り組む気の起きない難解な書物と格闘するか、さもなくば軽い読み物で適度に脳味噌の体操を試みるかの二択を迫られることになる。
今回後者を選択した庵主が手にしたのは二年ほど前に逝去された中国文学者高島俊男氏(1937~2021)のエッセイ集『お言葉ですが…』シリーズである。
シリーズ第5冊の『キライなことば勢揃い』に「河盛好蔵先生」と題する2000年に書かれた随筆が収められており、この小品に自分は強い感銘を受けた。
勿論、それは河盛先生が同郷人であるという点も多少は作用しているのかもしれないけれど。
話の大筋はこうだ。
昭和20年代、著者である高島氏は、新制になってまもない高校に入学し、学生新聞を作る部に入ったのだが、畑さんという三年生の先輩の部長に可愛がられ、自身もこの先輩を無上に尊敬した、とある。
入学した年の秋、この先輩氏はどこから聞きつけたものか、姫路に河盛好蔵が来ていると知り、著者を誘ってアポなしの突撃取材を試みんと旅館に押し掛けるのだが、丹前姿で出てきた河盛先生は畳に正座し、両膝に手をついて誠実に高校生風情の質問に答えてくれたという。
「戦後日本の文化について先生の所見をうけたまわりたい」などと、事前に用意して来た大仰な質問を連発する先輩氏に対し、準備など何もしておらず、ノコノコついて行っただけの著者は、最後に先輩に促されて「あのー、何を読んだらいいですか」と締まりのない質問をすることになるのだが、その時河盛先生はまだそれほど世に知られていなかった阿川弘之氏(1920~2015)の新刊『春の城』を勧め、その後、この本は第4回読売文学賞を受けて阿川氏の出世作となった。
「さすがに河盛先生は炯眼であった」と書いているが、偉い人は当たり前ながら物事の真価を見極める確かな眼を持っているということを痛感させられる。
また、「このほど訃をつたえる新聞で見た河盛先生の写真は、あの時、旅館のあがりかまちのところで、両膝に手をついて誠実に高校生の質問に答えてくださった河盛先生と、ほとんどちがわないように見えた」と結んでいるが、本当に「偉い人」は決して「偉そうに」しないものだということもまた此の随想から知ることが出来ると思う。
実力の御粗末に反比例するような傲岸不遜を見せつける学者ないし自称学者を少なからず見聞して来た身としては愈々その事を痛感せざるを得ないのである。
余談ながら河盛好蔵は拙ブログの読者諸氏には畑違いにて馴染みが薄いかもしれないが、昭和期を代表するフランス文学者の一人で、假令その名に記憶こそ無くとも、アベ・プレヴォ『マノン・レスコー』(岩波文庫)、コクトー『山師トマ』(角川文庫)辺りを河盛訳で読んだという読者は一昔あるいは二昔前なら少なくなかったと思うけれど、もっとも多くの読者を獲得したのは杉捷夫らとの共訳で白水社から出ていた旧版『キュリー夫人伝』であろうか。
堺出身の文化人と言えば、千利休と与謝野晶子が双璧で、お次はグッと知名度が下がって河口慧海あたりが来るのが相場だろうが、日本人初という以外には取り立ててウリに乏しい慧海などより、文化人という点なら河盛先生の方が遥かに勝った存在であるに違いない。
その代りに深夜に放映される映画と来たら『ターミネーター3』だの『ジョン・ウィック』だのと、撃ち合いばかりでうんざりさせられる。
テレビ屋は三が日に夜更かししているような手合いはどうせ撃ち合いしか観ないものと馬鹿にしているのだろうか。
そうまでしてC級映画にお付き合いする義理もないので、文化人の端くれを自任する者は時間がないと取り組む気の起きない難解な書物と格闘するか、さもなくば軽い読み物で適度に脳味噌の体操を試みるかの二択を迫られることになる。
今回後者を選択した庵主が手にしたのは二年ほど前に逝去された中国文学者高島俊男氏(1937~2021)のエッセイ集『お言葉ですが…』シリーズである。
シリーズ第5冊の『キライなことば勢揃い』に「河盛好蔵先生」と題する2000年に書かれた随筆が収められており、この小品に自分は強い感銘を受けた。
勿論、それは河盛先生が同郷人であるという点も多少は作用しているのかもしれないけれど。
話の大筋はこうだ。
昭和20年代、著者である高島氏は、新制になってまもない高校に入学し、学生新聞を作る部に入ったのだが、畑さんという三年生の先輩の部長に可愛がられ、自身もこの先輩を無上に尊敬した、とある。
入学した年の秋、この先輩氏はどこから聞きつけたものか、姫路に河盛好蔵が来ていると知り、著者を誘ってアポなしの突撃取材を試みんと旅館に押し掛けるのだが、丹前姿で出てきた河盛先生は畳に正座し、両膝に手をついて誠実に高校生風情の質問に答えてくれたという。
「戦後日本の文化について先生の所見をうけたまわりたい」などと、事前に用意して来た大仰な質問を連発する先輩氏に対し、準備など何もしておらず、ノコノコついて行っただけの著者は、最後に先輩に促されて「あのー、何を読んだらいいですか」と締まりのない質問をすることになるのだが、その時河盛先生はまだそれほど世に知られていなかった阿川弘之氏(1920~2015)の新刊『春の城』を勧め、その後、この本は第4回読売文学賞を受けて阿川氏の出世作となった。
「さすがに河盛先生は炯眼であった」と書いているが、偉い人は当たり前ながら物事の真価を見極める確かな眼を持っているということを痛感させられる。
また、「このほど訃をつたえる新聞で見た河盛先生の写真は、あの時、旅館のあがりかまちのところで、両膝に手をついて誠実に高校生の質問に答えてくださった河盛先生と、ほとんどちがわないように見えた」と結んでいるが、本当に「偉い人」は決して「偉そうに」しないものだということもまた此の随想から知ることが出来ると思う。
実力の御粗末に反比例するような傲岸不遜を見せつける学者ないし自称学者を少なからず見聞して来た身としては愈々その事を痛感せざるを得ないのである。
余談ながら河盛好蔵は拙ブログの読者諸氏には畑違いにて馴染みが薄いかもしれないが、昭和期を代表するフランス文学者の一人で、假令その名に記憶こそ無くとも、アベ・プレヴォ『マノン・レスコー』(岩波文庫)、コクトー『山師トマ』(角川文庫)辺りを河盛訳で読んだという読者は一昔あるいは二昔前なら少なくなかったと思うけれど、もっとも多くの読者を獲得したのは杉捷夫らとの共訳で白水社から出ていた旧版『キュリー夫人伝』であろうか。
堺出身の文化人と言えば、千利休と与謝野晶子が双璧で、お次はグッと知名度が下がって河口慧海あたりが来るのが相場だろうが、日本人初という以外には取り立ててウリに乏しい慧海などより、文化人という点なら河盛先生の方が遥かに勝った存在であるに違いない。
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