儒的な読卦
- 2023/02/10
- 18:11
本来卜筮のテキストであったものを儒家が経書として読み替えたのが『易経』で、以降二千年以上に渡り、儒家者流の注解が経文上に夥しく堆積して今に至る。
しかし、単なる占いのテキストを倫理的道徳的に読むということには本来無理がある訳で、儒者の読み替えは中々巧妙に行われたとは言え、端々に綻びが生じて来るのは避けられず、二十世紀に入って疑古的な立場から原義を明らかにしようと試みる人が現れて来る。
支那にあっては聞一多や李鏡池、高亨といった人達であるが、我が国でも此の流れを受けて疑古的な読みを試みた『易』の注解が幾つかあって、鈴木由次郎氏の明徳全書本や赤塚忠氏の平凡社本、三浦國雄氏の角川本が此の系譜の延長線上にある書物である。
例えば、同人は志を同じくする者同士が協同一致するという意味で従来説かれて来たが、これら三書は、多少の異同を含むものの、いずれも「同人」を斉同・和同ではなく「人を同(あつ)める」と解する。
そうすると、爻辞の意味は、それぞれ人々を門や宗廟、郊外などに集める、となるが、同人の三爻から五爻まで戦絡みの辞が続き、師と同人とが表裏の関係になっている訳も浮かび上がって来よう。
また、巽順の卦とされる巽為風は、三浦本や鈴木明徳本よりも赤塚本の観方の方が正鵠を射たもののように思われる。
赤塚忠氏の解では、「巽」は飲食物を整えて供える意であり、経文中の「巽」字も「そなえる」と訓じているが、十干で日取りを述べる五爻の辞との兼ね合いから見ても、恐らく最も妥当な解釈ではないかという気がする。
ただし、三書とも従来の解に甘んじて原義に迫れていないと思われる卦もあって、地山謙は孰れも謙譲・謙遜で読んであるけれど、このような倫理的な読み方は甚だ卜筮の書としては不釣り合いに思われてならない。
この卦を一読して気が付くことは、謙譲・謙遜の卦であるのに五爻と上爻の辞で戦争について述べている点で、流石にこれが妙だと感じた人は昔から居た。
『朱子語類』には、謙は人と争わないものであるのに、なにゆえ上の二爻に「利用侵伐」「利用行師」を曰うのかという弟子の問いに対して、朱子は『老子』の「大国以て小国に下れば小国を取り、小国以て大国に下れば大国を取る」「兵を抗げて相加ふるに、哀む者は勝つなり」、『孫子』の「始め処女の如くなれば敵人戸を開く。後に脱兎の如くなれば、敵拒ぐに及ばず」を引き、謙とは兵法の道であり、一歩退くことが大事なのだと、分かったような分からないような事を言っている。
この答えで弟子が満足したのかどうかは分からないけれども、私は寧ろ此の二爻を手掛かりにすれば、謙卦の原義は倫理道徳方面とは無関係の戦争絡みのものではないかという気がしてならない。
そうであれば、綜卦の雷地豫が卦辞からして「利建侯行師」と戦を曰うことの理由も明らかに出来るように思うのである。
しからば、謙卦の原義はと言われると答えに窮するが、謙の音をヒントに読み解くなら例えば剣と解してみてはどうだろうか。
具体的な器物を曰う卦は少ないけれど、火風鼎という例外があるにはあるし、二爻と上爻にある「鳴謙」も、剣名が世間に鳴り響くと考えれば、謙遜なることが言葉や容貌に表れているとする程伝の説や、謙遜であるという名声が世間に鳴り渡っていると解する王弼の説等よりも余程合点が行く。
また、謙遜の徳を奮い立てるという四爻の辞も奇妙だが、戦争においては剣は大いにふるって頂かねばならぬものだろう。
ところで、謙卦が老子的気配を漂わせていることは昔から言われており、私は戦争絡みの解を原義とするならば、老子的に読むことも謙遜・謙譲説に引き摺られていると感じるが、経学として易を捉える場合でも、老荘的視点は没却されるべきではないと考える。
例えば、武内義雄氏は、易はもと儒家よりは道家の方に重んぜられたものではないかとし、道家と易とが儒家以上に古くから関係のあったことを主張する。
また、老子が剛柔を対説しているのは易の彖・象伝を思わしめるとするが、老子は剛柔の二つを較べて剛を捨てて柔を取るべきことを教えているのに対し、易の彖・象伝は剛柔の中を取るべきことをよしとしているのは、老子の貴柔説から儒家の中庸説に移りゆく径路を示すようである、とも言っている。
ただ、武内氏が、易伝中には少なからず道家の思想が入っているものと考えなければならないとするのは私にも理解出来、例えば繋辞伝の中に本来道家が曰うところの「黄帝」等が見えて居るのもそうであるが、全体として矢張り翼伝は儒家者流のものであると思う。
戦国期はかなり自由に思想の交流が行われていたフシがあるので、何派の書物であると一概に決めつける訳には行かないところがあるようだ。
しかし、単なる占いのテキストを倫理的道徳的に読むということには本来無理がある訳で、儒者の読み替えは中々巧妙に行われたとは言え、端々に綻びが生じて来るのは避けられず、二十世紀に入って疑古的な立場から原義を明らかにしようと試みる人が現れて来る。
支那にあっては聞一多や李鏡池、高亨といった人達であるが、我が国でも此の流れを受けて疑古的な読みを試みた『易』の注解が幾つかあって、鈴木由次郎氏の明徳全書本や赤塚忠氏の平凡社本、三浦國雄氏の角川本が此の系譜の延長線上にある書物である。
例えば、同人は志を同じくする者同士が協同一致するという意味で従来説かれて来たが、これら三書は、多少の異同を含むものの、いずれも「同人」を斉同・和同ではなく「人を同(あつ)める」と解する。
そうすると、爻辞の意味は、それぞれ人々を門や宗廟、郊外などに集める、となるが、同人の三爻から五爻まで戦絡みの辞が続き、師と同人とが表裏の関係になっている訳も浮かび上がって来よう。
また、巽順の卦とされる巽為風は、三浦本や鈴木明徳本よりも赤塚本の観方の方が正鵠を射たもののように思われる。
赤塚忠氏の解では、「巽」は飲食物を整えて供える意であり、経文中の「巽」字も「そなえる」と訓じているが、十干で日取りを述べる五爻の辞との兼ね合いから見ても、恐らく最も妥当な解釈ではないかという気がする。
ただし、三書とも従来の解に甘んじて原義に迫れていないと思われる卦もあって、地山謙は孰れも謙譲・謙遜で読んであるけれど、このような倫理的な読み方は甚だ卜筮の書としては不釣り合いに思われてならない。
この卦を一読して気が付くことは、謙譲・謙遜の卦であるのに五爻と上爻の辞で戦争について述べている点で、流石にこれが妙だと感じた人は昔から居た。
『朱子語類』には、謙は人と争わないものであるのに、なにゆえ上の二爻に「利用侵伐」「利用行師」を曰うのかという弟子の問いに対して、朱子は『老子』の「大国以て小国に下れば小国を取り、小国以て大国に下れば大国を取る」「兵を抗げて相加ふるに、哀む者は勝つなり」、『孫子』の「始め処女の如くなれば敵人戸を開く。後に脱兎の如くなれば、敵拒ぐに及ばず」を引き、謙とは兵法の道であり、一歩退くことが大事なのだと、分かったような分からないような事を言っている。
この答えで弟子が満足したのかどうかは分からないけれども、私は寧ろ此の二爻を手掛かりにすれば、謙卦の原義は倫理道徳方面とは無関係の戦争絡みのものではないかという気がしてならない。
そうであれば、綜卦の雷地豫が卦辞からして「利建侯行師」と戦を曰うことの理由も明らかに出来るように思うのである。
しからば、謙卦の原義はと言われると答えに窮するが、謙の音をヒントに読み解くなら例えば剣と解してみてはどうだろうか。
具体的な器物を曰う卦は少ないけれど、火風鼎という例外があるにはあるし、二爻と上爻にある「鳴謙」も、剣名が世間に鳴り響くと考えれば、謙遜なることが言葉や容貌に表れているとする程伝の説や、謙遜であるという名声が世間に鳴り渡っていると解する王弼の説等よりも余程合点が行く。
また、謙遜の徳を奮い立てるという四爻の辞も奇妙だが、戦争においては剣は大いにふるって頂かねばならぬものだろう。
ところで、謙卦が老子的気配を漂わせていることは昔から言われており、私は戦争絡みの解を原義とするならば、老子的に読むことも謙遜・謙譲説に引き摺られていると感じるが、経学として易を捉える場合でも、老荘的視点は没却されるべきではないと考える。
例えば、武内義雄氏は、易はもと儒家よりは道家の方に重んぜられたものではないかとし、道家と易とが儒家以上に古くから関係のあったことを主張する。
また、老子が剛柔を対説しているのは易の彖・象伝を思わしめるとするが、老子は剛柔の二つを較べて剛を捨てて柔を取るべきことを教えているのに対し、易の彖・象伝は剛柔の中を取るべきことをよしとしているのは、老子の貴柔説から儒家の中庸説に移りゆく径路を示すようである、とも言っている。
ただ、武内氏が、易伝中には少なからず道家の思想が入っているものと考えなければならないとするのは私にも理解出来、例えば繋辞伝の中に本来道家が曰うところの「黄帝」等が見えて居るのもそうであるが、全体として矢張り翼伝は儒家者流のものであると思う。
戦国期はかなり自由に思想の交流が行われていたフシがあるので、何派の書物であると一概に決めつける訳には行かないところがあるようだ。
スポンサーサイト