『高島嘉右衛門 横浜政商の実業史』松田裕之著(日本経済評論社/2012年刊)
従来の嘉右衛門伝が全てと言って良いくらい呑象自身の証言を全て鵜呑みにして編まれているのに対し、今日ご紹介する松田裕之『高島嘉右衛門 横浜政商の実業史』は、現存する事業関連の公的文書や呑象を取り巻く人物群に関する史料によって呑象の懐旧譚を検証した面白い評伝である。
紀藤元之介『乾坤一代男』や高木彬光『大予言者の秘密』が、呑象を数々の大事業を手掛けた希代の大実業家にして神がかった易占により明治の元勲達からも頼りにされた明治の易聖として何処までも肯定的に描いているのに対し、恐らくは易占など丸で信じていない著者はそれらを虚像として現実の世界に引きずりおろそうとする。
松田氏が描いた呑象像は、投機的な事業に次々と手を出し、先の見込み無しと判断すれば素早い変わり身によって事業を売却する場当たり的な事業家であり、我々の主たる関心である易占についても「何よりも事業機会につながる情報収集に必要な社交ツール」(204頁)であったとする。
もっとも、呑象が易占を心底信じていたことは嗣子長政氏の回想にも明らかであり、松田氏の見方は些か穿ち過ぎたものであるとしなければならないが、この好著によって我々の呑象高島嘉右衛門像が幾らかの変更を(個人的には大いに)迫られることは事実だろう。
勿論、呑象が希代の実業家であったことは間違いない。
それは本書にもあるように、明治35年の資産総額は1000万円で、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事創業者)らと共に第六グループにランクされていることにも明らかである。
しかし、現在ならダンピングとして独占禁止法に当たるような若き日の材木の安売り商法は閉業に追い込まれる同業者を生じさせた阿漕なものであったし、獄に下ることになった有名な小判洋銀闇取引にしても狡すっからい小悪党的な所業に相違ない。
公使パークスを引き込んで行った英国公使館建設など、全額幕府持ちであることを良いことに、当初見積もりの五倍に当たる建築費を堂々と請求する確信犯ぶりには開いた口がふさがらなくなる。
また、有名な瓦斯燈事業や高島学校にしても、実情は我々が思っているものとは随分違うようで、いずれも採算が取れなくなると簡単によそに押し付けて終わっていることに愕然とさせられよう。
殊に高島学校が失火によって焼失ののち、三井八郎右衛門や小野善三郎らが焼け出された生徒たちに義援金を送っているのに対し、呑象はなんらの支援も行っていないというのは非情な話という他なく、著者が「高島学校の顛末を眺めると、嘉右衛門は事業開始にあたって綿密周到な準備をせずに、「これは有望だろう」とか「世間の需要があるだろう」という見込みにもとづいているにすぎぬ印象を受ける」というのも致し方のないところである。
また、本書では幾つかの事業を共にした渋沢栄一を幾度も呑象と対比させて論じており、渋沢も多くの事業に関与してはそれを去って一業に執着することはなかったものの、彼は経営者に適当なる人物が得られれば、その人物に事業を托した上で、そこから手を引いているのに対し、呑象は未踏の事業を一時に複数こなしながら、それらを自分の裁量だけで運営しようとした結果として、管理が不十分となり、行き詰まりを招いたのだとする。
私たちはこれまで偉大なる実業家としての像を漠然と描いていたけれど、著者は「嘉右衛門の事業姿勢は臨機応変とか奇略自在とかいえば聴こえは良いが、理念や計画性や組織性に欠けた、創業利得狙いの思惑商法との誹りも免れない」(161頁)と手厳しい。
また、従来漠然と独力に近い奮闘で数々の事業に取り組んだように思われていたものの、本書が影武者として優れた手腕を振るった嗣子嘉兵衛の存在に着目しているのは鋭く、呑象在世時に破産したことによって、私なども見込み違いで嗣子となった無能な人物とばかり思い込んでいたけれど、実際には呑象の無茶な経営手法の煽りを食った人物のように思われて来る(本書ではそこまで突っ込んで書かれてはいないけれど)。
なお、本書もまた長政氏を養子、破産した嘉兵衛を実子としているが、これは誤りであって実際には逆である。
(2023年3月10日追記:高島嘉右衛門を研究する横浜の郷土史家 長沼隆年氏の教示によると、高島家には複雑な御家事情があるらしく、実際は嘉兵衛長政ともに養子として迎えられており、長政氏は二世呑象徳右衛門の弟であるとのこと)
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