講演を行う晩年の加藤先生
今日10月25日は加藤大岳先生(1907~1983)の命日である。
“昭和の易聖”として知られる先生であるが、紀元書房から刊行された単行本には今一つその人となりを知る情報が少ないし、
Wikipediaでの紹介は簡潔以外の何物でもない。
そこで、今日は初学の方の為に、加藤先生のプロフィールを簡潔ではあるが、Wikipediaよりは詳しくご紹介しようと思う。
加藤大岳先生は、1907年に会津の本郷焼の窯元に六人兄弟の末子として生まれ、本名を四朗といった。
会津藩お抱え陶師として200年余り本郷に店を構えた焼き物の名家だったようだ。
小学校から県立会津工業学校まで首席で通した秀才で、小学校や栃木県の工業学校で教師として勤務した経験があり、多くの秀れた門下を輩出したことからも判るように、教師として優れた資質をお持ちだったのだろう。
その後、上京して東洋大学に籍を置く傍らで、佐藤春夫(『田園の憂鬱』などで余りにも有名な文学者)の門下生として詩作に熱中されたという。
なお、東洋大学は中途退学されたが、ギリシャ哲学の研究者として有名な出隆先生(1892~1980年。有名ではあるが翻訳の出来の評判はすこぶる悪い)の講義を好んで受けられたと回想されている。
佐藤春夫門下の時代に、詩の同人誌を作り、林芙美子、今東光、横光利一などと交友があり、今東光の『易学史』が紀元書房から出た経緯も、この時代の交友による。
その後、少年雑誌に童話などを書いて寄稿し、原稿料で食い繋ぐ生活を送っていた際、長男が生まれて定職につく必要があり、熊崎健翁先生(1881~1961)率いる五聖閣の講師となって禄を食むことになるが、これが大岳先生が易の世界に入る奇縁で、実の姉のような存在であった従姉妹が熊崎先生の後妻となっていたことからの縁だった。
五聖閣では、熊崎先生の原稿の校正の他に著述の代筆も行っており、熊崎健翁著として出た『易占の神秘』(昭和6年初版)は実際には大岳先生の筆に成ったものである。
同時期に五聖閣の講師として共に働いた人には、中村文聰や永杜鷹一らがいる。
その後、熊崎先生が宗教団体を興したことをきっかけに五聖閣の主要メンバーが一斉に離反し、この事件を契機に大岳先生自身も五聖閣を離れ、独自の活動を始めることになり、これが昭和易学界の牽引役となり、大岳先生をして“昭和の易聖”たらしめた汎日本易学協会(1936年創立)へと繋がっていく。
その後の活動は多くの人の知るところであり、詳述の必要性もさしてなかろうと思う。
ちょうど30年前の今日、大岳先生は満76歳の生涯を閉じられ、湯島聖堂にて汎日本易学協会による協会葬が執り行われた。
法名は「紀元院大岳易仙居士」、墓所は高尾にあり、蒼流庵主人は2011年の6月に初めて墓参し、同年秋の岳易忌(老園卓昌先生主催)にも参列させてもらった。
最後に、葬儀委員長を務められた高弟の磯田英雄先生の弔辞から少し引用させて頂き、没後30年の夜の私なりの供養とさせて頂きたいと思う。
大海に於て闇を照らす燈台の如く、仰ぎ見て、その輝く光に導かれて学易道を歩んで参りました私達にとって、恩師・加藤大岳先生の逝去は、協会員一同の深く悲しみとする処でございます。
恩師・大岳先生は、先哲の残された易経学を悉く尋ねて、その蘊奥とする所を究め、先賢の示された易占法の秘訣を探り、その精を採り、その粋を萃め、以て学と術とを集大成し、茲に昭和の易学を完成して、世に示されました。
伝統墨守の易学に、昭和の新しい息吹を与えて、現代に生きる易経を示し、易占法に於ても、迷信視されて来た旧来の蠱風を払拭して、理路整然、聞く者をしてよく理解せしめ信ぜしむるに足る活占法を確立し、学と術とを綜合して大岳易を打ち立て、その光芒は昭和の易として易学史上に大きな足跡を残すものと信じます。弔辞「恩師・加藤大岳先生の霊前に捧ぐる言葉」
葬儀委員長・磯田英雄(昭和58年11月13日)
湯島聖堂での協会葬
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