内山鉄杖を求めて①
- 2023/06/28
- 18:28
与州窯訪問と合わせて予てから計画していたのが一年ぶりとなる内山鉄杖の調査である。
内山鉄杖と聞いてピンと来るのは、かなりの易学愛好家ではないかと思うが、明治の終わりに『易学顧問』『日本易』『吾が易占』の三冊の易書(孰れも国会図書館がデジタル資料を公開している)を刊行した人物で、庵主が興味を持ったのは我が宇和島ゆかりの唯一の易学者であった為だ。
何年か前に宇和島市立図書館に資料調査を依頼したが、詳細は殆ど判らず、『南予史 天地人』(久保盛丸著/2014年刊)に「跋 南豫史の水晶に與ふ」という鉄状の書いた全六頁の文章が載っていることと、『鶴城青年』という地方新聞に寄稿したものがあるという僅かな事柄について教示を得られたのみであった。
そこで、デジタル公開されている著作に記載された情報を手掛かりに現地調査を試みたのが昨年四月のことであった。
『易学顧問』の奥付には「宇和島 和霊堤」とあって、これはどうやら和霊町の和霊神社の附近であるらしい。
神社の前を須賀川が流れているので、「堤」とあることからすれば、川沿いに活動の拠点があったもののようだ。
街頭易者として神社前の川附近で売卜をしていたということも考えられなくはないが、同頁には「漢学 国文学教授」ともあって、まさか出店のような場所で教授出来る内容でもなかろうから、川沿いに雨露をしのげる様な住居があったのではないかという気がする。
取り敢えず、和霊神社の社務所にて聞き取りを行ったが手掛かりを得ること叶わず、念のため内山鉄杖が建立した玉垣でもないものかと一つ一つ丁寧に調べてみたが、こちらにも鉄杖に繋がりそうなものを見付けることは出来なかった。
もう一つの手掛かりは『日本易』の奥付にある住所で、ここでは「愛媛県北宇和郡八幡村大字藤江」1743、1744、1745と三つの番地が記載されている。
『日本易』は『易学顧問』の八年後の刊行であるから、引っ越したのかもしれない。
現在のどの辺りか正確な場所は特定出来なかったが、藤江は現在も残る地名で多賀神社の裏の地区であるから、附近の住宅地図を閲覧してみたものの、現在内山姓の家は無いようだ。
仕方がないので、附近の共同墓地や寺院墓地を悉皆調査してみたが、これも空振りに終わってしまった。
これが昨年四月に行った現地調査のあらましである。
内山鉄杖と聞いてピンと来るのは、かなりの易学愛好家ではないかと思うが、明治の終わりに『易学顧問』『日本易』『吾が易占』の三冊の易書(孰れも国会図書館がデジタル資料を公開している)を刊行した人物で、庵主が興味を持ったのは我が宇和島ゆかりの唯一の易学者であった為だ。
何年か前に宇和島市立図書館に資料調査を依頼したが、詳細は殆ど判らず、『南予史 天地人』(久保盛丸著/2014年刊)に「跋 南豫史の水晶に與ふ」という鉄状の書いた全六頁の文章が載っていることと、『鶴城青年』という地方新聞に寄稿したものがあるという僅かな事柄について教示を得られたのみであった。
そこで、デジタル公開されている著作に記載された情報を手掛かりに現地調査を試みたのが昨年四月のことであった。
『易学顧問』の奥付には「宇和島 和霊堤」とあって、これはどうやら和霊町の和霊神社の附近であるらしい。
神社の前を須賀川が流れているので、「堤」とあることからすれば、川沿いに活動の拠点があったもののようだ。
街頭易者として神社前の川附近で売卜をしていたということも考えられなくはないが、同頁には「漢学 国文学教授」ともあって、まさか出店のような場所で教授出来る内容でもなかろうから、川沿いに雨露をしのげる様な住居があったのではないかという気がする。
現在の和霊堤
取り敢えず、和霊神社の社務所にて聞き取りを行ったが手掛かりを得ること叶わず、念のため内山鉄杖が建立した玉垣でもないものかと一つ一つ丁寧に調べてみたが、こちらにも鉄杖に繋がりそうなものを見付けることは出来なかった。
もう一つの手掛かりは『日本易』の奥付にある住所で、ここでは「愛媛県北宇和郡八幡村大字藤江」1743、1744、1745と三つの番地が記載されている。
『日本易』は『易学顧問』の八年後の刊行であるから、引っ越したのかもしれない。
現在のどの辺りか正確な場所は特定出来なかったが、藤江は現在も残る地名で多賀神社の裏の地区であるから、附近の住宅地図を閲覧してみたものの、現在内山姓の家は無いようだ。
仕方がないので、附近の共同墓地や寺院墓地を悉皆調査してみたが、これも空振りに終わってしまった。
これが昨年四月に行った現地調査のあらましである。
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