内山鉄杖を求めて②
- 2023/07/01
- 09:52
昨年の内山鉄杖探しの旅の後、国会図書館に於ける二大革命の御蔭で、調査に幾らかの進展を見た。
まず、生没年さえ不詳であったところが、『郷土伊予と伊予人』という昭和17年刊行の書物に鉄杖に関する記述を発見することが出来た。
内山鉄杖 音吉、宇和島の人、年少足疾にかヽり易学を研究、鉄杖によりとび歩いてゐた街頭哲学者、かつて鶴城青年を編輯発行してゐたともある。大正四年八月十日歿す四十四歳
勝手に老先生を想像していたが、享年四十四歳というのは実に若い。
易書を刊行していたのは三十歳代ということになる。
また、「鉄杖」という号が歩行に障害がある為に用いていた鉄の杖から来ているということも判った。
もう一つの収穫は、なんと宝酒造中興の祖と言われる大宮庫吉が鉄杖門より輩出されているという事実である。
大宮庫吉は幼時に父母を亡くして養子に出された苦労人で、宝酒造を日本有数の酒造会社に成長させ、政財界の大物とも親交があった立志伝中の人物であるが、週刊『野田経済』の新年特大号(1963年)に「新年に思う」と題した庫吉の随想が出ている。
私は幼少の頃からあまりにも恵まれぬ運命にあつた。
孤児である自分は、早く大人になりたいとこれのみ考えたものである。
かくして毎日暗い思いに色々と悩みぬいた結果、わが一生涯の運勢をせめて知りたい悲願から、当時易学の大家であり、同時にわが漢文の恩師でもあつた内山鉄杖先生におたのみ申し上げて、わが一代運勢を占つて貰うこととなつた。
その印象深い記録は、今に至るも大切に秘蔵して筐底にある。実に私がまだ未成年の頃であつた。
以来時は流れて幾十星霜、人生の行路まことに坦々たらずで、多難な幾山川を越え去り、越え来たつた今日、泌々過去を振り返えりみて、この「秘録」に負うところが少なくなかつたこと、感謝することの多かつたことを思う。
当時、鉄杖先生の曰く、「抑も易な易経を基とし、天、地、人、この三つの相互交渉の奥義をきわめたものであつて、本来人間は、天地の法則に律せられて生活するものである云々」と説かれたことを記憶するにとどまる。
世俗なことばに、あたるも八卦、あたらぬも八卦と言われているが、要するにこれは「易」の根本原理がわるいのではなくて、むしろこれを占い扱うところのその人の内容、判断力によるものと思われる。
また説をなす人があつて、「凡そ八卦占いというものは、占われた側の者がその易者の占いに対して自分からあれこれとあててゆくものだ」と言つているが、あるいは一面の見方、考え方かもしれぬ。
『易学顧問』の自序から察するに鉄杖は高等教育を受けた人ではなく、赤貧の中に生きた人物であったようだが、その学問は間接的に社会に大きな影響を与えたと見られぬこともなさそうだ。
昭和36年11月には寿像が建立され、台石の「大宮庫吉翁」の文字は池田勇人の揮毫。
台石の碑文は宇和島伊達家11代当主 伊達宗彰(1905~1969)の撰文であるが、実は此の伊達宗彰氏は我が祖父正義の主君だった人である。
前列右端が祖父、後列右から二番目が祖母、一人置いて左に写っているのが、伊達宗彰氏で、この写真は宗彰氏の還暦祝いの時に撮られたものとある。
また宗彰氏の孫で、現当主の宗信氏は焼き物にも造詣が深いらしく、藤田登太郎先生の与州窯に来られたこともあるそうだ。
四国など所詮狭い地域と言えばそれまでだが、不思議な繋がりというものは矢張りある気がする。
先月の鉄杖調査では、電話帳から内山姓の家をリストアップして片っ端から訪問してみたが、残念ながら二度目の調査でも縁者に辿り着くことは出来なかった。
身体障碍者であったというし、或いは生涯独身で自身の死と共に絶家したのかもしれない(『易学顧問』の自序に「売卜は母子二口の化石せざらんまでの計のみ」とあって、母親と二人で暮らしていたようだ)。
この記事を御覧になった御心当たりのある方からのコンタクトを今は待つより他に出来ることはないようである。
まず、生没年さえ不詳であったところが、『郷土伊予と伊予人』という昭和17年刊行の書物に鉄杖に関する記述を発見することが出来た。
内山鉄杖 音吉、宇和島の人、年少足疾にかヽり易学を研究、鉄杖によりとび歩いてゐた街頭哲学者、かつて鶴城青年を編輯発行してゐたともある。大正四年八月十日歿す四十四歳
勝手に老先生を想像していたが、享年四十四歳というのは実に若い。
易書を刊行していたのは三十歳代ということになる。
また、「鉄杖」という号が歩行に障害がある為に用いていた鉄の杖から来ているということも判った。
もう一つの収穫は、なんと宝酒造中興の祖と言われる大宮庫吉が鉄杖門より輩出されているという事実である。
大宮庫吉は幼時に父母を亡くして養子に出された苦労人で、宝酒造を日本有数の酒造会社に成長させ、政財界の大物とも親交があった立志伝中の人物であるが、週刊『野田経済』の新年特大号(1963年)に「新年に思う」と題した庫吉の随想が出ている。
私は幼少の頃からあまりにも恵まれぬ運命にあつた。
孤児である自分は、早く大人になりたいとこれのみ考えたものである。
かくして毎日暗い思いに色々と悩みぬいた結果、わが一生涯の運勢をせめて知りたい悲願から、当時易学の大家であり、同時にわが漢文の恩師でもあつた内山鉄杖先生におたのみ申し上げて、わが一代運勢を占つて貰うこととなつた。
その印象深い記録は、今に至るも大切に秘蔵して筐底にある。実に私がまだ未成年の頃であつた。
以来時は流れて幾十星霜、人生の行路まことに坦々たらずで、多難な幾山川を越え去り、越え来たつた今日、泌々過去を振り返えりみて、この「秘録」に負うところが少なくなかつたこと、感謝することの多かつたことを思う。
当時、鉄杖先生の曰く、「抑も易な易経を基とし、天、地、人、この三つの相互交渉の奥義をきわめたものであつて、本来人間は、天地の法則に律せられて生活するものである云々」と説かれたことを記憶するにとどまる。
世俗なことばに、あたるも八卦、あたらぬも八卦と言われているが、要するにこれは「易」の根本原理がわるいのではなくて、むしろこれを占い扱うところのその人の内容、判断力によるものと思われる。
また説をなす人があつて、「凡そ八卦占いというものは、占われた側の者がその易者の占いに対して自分からあれこれとあててゆくものだ」と言つているが、あるいは一面の見方、考え方かもしれぬ。
『易学顧問』の自序から察するに鉄杖は高等教育を受けた人ではなく、赤貧の中に生きた人物であったようだが、その学問は間接的に社会に大きな影響を与えたと見られぬこともなさそうだ。
昭和36年11月には寿像が建立され、台石の「大宮庫吉翁」の文字は池田勇人の揮毫。
台石の碑文は宇和島伊達家11代当主 伊達宗彰(1905~1969)の撰文であるが、実は此の伊達宗彰氏は我が祖父正義の主君だった人である。
前列右端が祖父、後列右から二番目が祖母、一人置いて左に写っているのが、伊達宗彰氏で、この写真は宗彰氏の還暦祝いの時に撮られたものとある。
また宗彰氏の孫で、現当主の宗信氏は焼き物にも造詣が深いらしく、藤田登太郎先生の与州窯に来られたこともあるそうだ。
四国など所詮狭い地域と言えばそれまでだが、不思議な繋がりというものは矢張りある気がする。
先月の鉄杖調査では、電話帳から内山姓の家をリストアップして片っ端から訪問してみたが、残念ながら二度目の調査でも縁者に辿り着くことは出来なかった。
身体障碍者であったというし、或いは生涯独身で自身の死と共に絶家したのかもしれない(『易学顧問』の自序に「売卜は母子二口の化石せざらんまでの計のみ」とあって、母親と二人で暮らしていたようだ)。
この記事を御覧になった御心当たりのある方からのコンタクトを今は待つより他に出来ることはないようである。
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