“奇男児”左近熊太翁のこと
- 2023/08/07
- 18:43
大阪南東部に位置する奥河内の中心エリア、河内長野市は嘗て我が粟島行春師が活動の拠点にされていた場所で、古くは日本一の爪楊枝の生産地でもあり、また今では完全に絶産となっているものの、麦門冬の栽培でも知られた地域である。
市の山手の谷深く、嘗て滝畑という集落があったが、1981年に滝畑ダムが完成して注水が始まり、村の大部分は今は仄暗い水の底に沈んでしまった。
実は此の滝畑地区は涼を求めて庵主が夏場に繰り出す場所で、少ない年で四~五回、多い時なら十数回は足を運ぶ年もあるが、生薬探索の舞台になることも多かったから、回数で言えば百回どころではきかないかもしれない。
ところで、此の滝畑は今は亡き宮本常一(1907~1981)が最初期に調査を行った、宮本民俗学の出発点とも言い得る場所で、昭和九年二月十七日に最初に足を踏み入れた当初の目的は三つあったらしく、一つは雨乞行事を調べること、二つは岩湧の凍豆腐小屋の調査、三つは此の地にあると噂に聞いていた和泉の聖神社から出ていた舞暦の版木を探し出すことであったという。
小学校教員の片手間に行った滝畑調査が頗る面白いものになったのは、昭和十一年二月に当時83歳の村の古老 左近熊太翁に出会ったのが契機で、十三回にわたる聞書きの前半七回分を纏めた『河内国瀧畑左近熊太翁旧事談』が、翌昭和十二年八月にアチックミューゼアム(後の神奈川大学日本常民文化研究所)から刊行され、此の本は実に貴重な民族採集記録となっている。
同書は、後に『宮本常一著作集』の第37巻に収録されており、我が堺市立図書館には郷土資料コーナーに架蔵されているのだが、大阪の山間部は生薬探偵業の御蔭で知り尽くしていることもあって、庵主には実に楽しい読み物であった。
何よりも此の史料を得難い書物にしているのは語り手である左近熊太翁自身の魅力で、『~旧事談』の冒頭「河内瀧畑入村記」の一節を少し引用してみよう。
しかし翁もおよそ変わり種である。その博聞強記と話題の豊富には、きかされる私さえ参ったほどである。しかも村の新進であったらしいことは天理教にも大本教にもその初期入信し、またサッサと出てきているのである。そうして働く宗ほどいい宗旨はないと片付ける。
旅を愛好されたことも格別で足跡は全国に到っている。それも金あっての旅でなく、人の供をしたり、八卦を見たりして歩いたのであるからおもしろい。人を食った不敵さと、深い敬虔さとが交錯して翁はまさに奇男児である。この翁をこの山中に求め得たことは、私の僥倖であると言っていい。
翁は旅をしたしるしに、その行く先々の神社仏閣の柱の寸法などまではかったという。しかもそれをチャンと覚えている。
現在周防大島の文化交流センター宮本常一資料展示室で学芸員をされている木村哲也(1971~)という民俗学者の著『忘れられた日本人』の舞台を旅するの40頁に、左近熊太翁の略歴が上手く纏められているので、転載させて頂く。
左近熊太は十二歳の時に鳥羽伏見の戦いを経験。村に多数の徳川方の浪人が逃げてきたが、その負け方は目もあてられなかった。明治の世になり、二十一歳の時に徴兵検査を受けて合格、翌年西南戦争に出て顔に大やけどを負う。村に帰り結婚。当時、村の者はほとんど字を知らず、みんな騙されて村の野山が勝手に官有林にされていた。法律というものがあることをはじめて知り、下げ戻し運動のため三十歳を過ぎてから独学で字を習う。妻を無くし子どもも跡をとったことだしと、五十六歳の年から旅に出る。山の暮らしでは損をすることが多い。旅で世間を知れば、村の暮らしにも役立つだろう。京都で大川という易者と知り合い、ついて歩く。京都―城崎―豊岡―湯村―大山寺―出雲大社―石見と歩いて、長州赤間関から船便で北海道小樽へ。初めての旅があまりに長旅なので、息子の嫁に旅先で死にでもしたらと心配される。「はいはい、もう決して一人旅はしません。しかし二人旅ならゆるして下され」。仕方なく滝畑の坊さんと連れ立って、成田から日光へ。しかし汽車の旅なのでおもしろくない。そこで大川さんに頼んでできるだけ大川さんと歩く。六十六歳のとき、九州をひとまわり。おもしろいところなのでまた行くことにする。船で別府へ―雲仙―島原―長崎―五島へ。帰りは四国を歩く。七十歳まで、この八十歳をこえていたという易者について歩いた。大川さんが京都で死んでからは長い旅はできず滝畑で暮らし、村が近代化してゆく時、その広い見聞を生かして外部との渉外方を引き受け、村の外を知らぬ村人たちのよき相談相手になった。しかし財産はまるで残さなかった。
「やっと世間のことがわかるようになったときには、もう七十になっていましてな。わしも一生何をしたことやらわかりまへん」
確かに、“奇男児”とでも評す他のない人物である。
著作集37の巻末には「左近翁に献本の記」と題した哀切極まりない短文が収載されており、涙無しには読了出来ないものであった。
市の山手の谷深く、嘗て滝畑という集落があったが、1981年に滝畑ダムが完成して注水が始まり、村の大部分は今は仄暗い水の底に沈んでしまった。
実は此の滝畑地区は涼を求めて庵主が夏場に繰り出す場所で、少ない年で四~五回、多い時なら十数回は足を運ぶ年もあるが、生薬探索の舞台になることも多かったから、回数で言えば百回どころではきかないかもしれない。
ところで、此の滝畑は今は亡き宮本常一(1907~1981)が最初期に調査を行った、宮本民俗学の出発点とも言い得る場所で、昭和九年二月十七日に最初に足を踏み入れた当初の目的は三つあったらしく、一つは雨乞行事を調べること、二つは岩湧の凍豆腐小屋の調査、三つは此の地にあると噂に聞いていた和泉の聖神社から出ていた舞暦の版木を探し出すことであったという。
小学校教員の片手間に行った滝畑調査が頗る面白いものになったのは、昭和十一年二月に当時83歳の村の古老 左近熊太翁に出会ったのが契機で、十三回にわたる聞書きの前半七回分を纏めた『河内国瀧畑左近熊太翁旧事談』が、翌昭和十二年八月にアチックミューゼアム(後の神奈川大学日本常民文化研究所)から刊行され、此の本は実に貴重な民族採集記録となっている。
同書は、後に『宮本常一著作集』の第37巻に収録されており、我が堺市立図書館には郷土資料コーナーに架蔵されているのだが、大阪の山間部は生薬探偵業の御蔭で知り尽くしていることもあって、庵主には実に楽しい読み物であった。
何よりも此の史料を得難い書物にしているのは語り手である左近熊太翁自身の魅力で、『~旧事談』の冒頭「河内瀧畑入村記」の一節を少し引用してみよう。
しかし翁もおよそ変わり種である。その博聞強記と話題の豊富には、きかされる私さえ参ったほどである。しかも村の新進であったらしいことは天理教にも大本教にもその初期入信し、またサッサと出てきているのである。そうして働く宗ほどいい宗旨はないと片付ける。
旅を愛好されたことも格別で足跡は全国に到っている。それも金あっての旅でなく、人の供をしたり、八卦を見たりして歩いたのであるからおもしろい。人を食った不敵さと、深い敬虔さとが交錯して翁はまさに奇男児である。この翁をこの山中に求め得たことは、私の僥倖であると言っていい。
翁は旅をしたしるしに、その行く先々の神社仏閣の柱の寸法などまではかったという。しかもそれをチャンと覚えている。
現在周防大島の文化交流センター宮本常一資料展示室で学芸員をされている木村哲也(1971~)という民俗学者の著『忘れられた日本人』の舞台を旅するの40頁に、左近熊太翁の略歴が上手く纏められているので、転載させて頂く。
左近熊太は十二歳の時に鳥羽伏見の戦いを経験。村に多数の徳川方の浪人が逃げてきたが、その負け方は目もあてられなかった。明治の世になり、二十一歳の時に徴兵検査を受けて合格、翌年西南戦争に出て顔に大やけどを負う。村に帰り結婚。当時、村の者はほとんど字を知らず、みんな騙されて村の野山が勝手に官有林にされていた。法律というものがあることをはじめて知り、下げ戻し運動のため三十歳を過ぎてから独学で字を習う。妻を無くし子どもも跡をとったことだしと、五十六歳の年から旅に出る。山の暮らしでは損をすることが多い。旅で世間を知れば、村の暮らしにも役立つだろう。京都で大川という易者と知り合い、ついて歩く。京都―城崎―豊岡―湯村―大山寺―出雲大社―石見と歩いて、長州赤間関から船便で北海道小樽へ。初めての旅があまりに長旅なので、息子の嫁に旅先で死にでもしたらと心配される。「はいはい、もう決して一人旅はしません。しかし二人旅ならゆるして下され」。仕方なく滝畑の坊さんと連れ立って、成田から日光へ。しかし汽車の旅なのでおもしろくない。そこで大川さんに頼んでできるだけ大川さんと歩く。六十六歳のとき、九州をひとまわり。おもしろいところなのでまた行くことにする。船で別府へ―雲仙―島原―長崎―五島へ。帰りは四国を歩く。七十歳まで、この八十歳をこえていたという易者について歩いた。大川さんが京都で死んでからは長い旅はできず滝畑で暮らし、村が近代化してゆく時、その広い見聞を生かして外部との渉外方を引き受け、村の外を知らぬ村人たちのよき相談相手になった。しかし財産はまるで残さなかった。
「やっと世間のことがわかるようになったときには、もう七十になっていましてな。わしも一生何をしたことやらわかりまへん」
確かに、“奇男児”とでも評す他のない人物である。
著作集37の巻末には「左近翁に献本の記」と題した哀切極まりない短文が収載されており、涙無しには読了出来ないものであった。
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