左近熊太翁を探して
- 2023/08/13
- 10:52
木村哲也氏の『『忘れられた日本人』の舞台を旅する』は、高校卒業と同時に『忘れられた日本人』と出会い、以後宮本常一の足跡を辿って旅を続けた著者の記録で、第二章で滝畑が扱われている。
木村氏は1994年、1996年、1998年の三回、滝畑に足を運んで、左近熊太翁の孫 又三郎氏を探し当て、かつての貴重な証言を多く聞き出すことが出来た。
木村本によると、宮本常一が取材した頃の左近家は、今の夕月橋の上流左岸辺りにあったそうだ。
上の写真は先日夕月橋上から撮影したもので、上流左岸ということは写真右手の辺りに左近家があったものらしい。
木村氏は又三郎氏の案内で滝畑霊園にある熊太翁の墓を掃苔し、「天中院松厳昇鶴居士」の戒名が彫られた墓があることを著書に記している。
木村本の書きぶりからすると、熊太翁単独の墓碑があったように思われるが、現在は左近家の累代墓として改葬されたらしく、平成27年に建てられた新しい墓碑になっていた。
横の墓標右端に木村氏が記している戒名が刻まれていて、熊太翁は昭和18年の末まで存命であったことが判る。
戦前の90歳と言えば、かなりの長命と言えるだろう。
現在の滝畑霊園は、村がダムで沈む際に墓碑だけを避難させて集めたところで、土葬も多かったらしいが、遺骸は全て水底に眠っている。
熊太翁の過ごした家も其の亡骸も今では深く暗い湖水の底、そんなどこか不気味な滝畑ゆえに、怪談にも事欠かない地域だが、生憎昼間にしか行ったことがないので、首無しライダー氏にも超高速の老婆にも出くわしたことはない。
ただ、気味の悪い事件と言えば、主婦と象印の元副社長が殺害されて、遺体がダム近くに遺棄されたという事件は記憶に新しいが、調べてみるともう12年も前のことであった。
木村氏は1994年、1996年、1998年の三回、滝畑に足を運んで、左近熊太翁の孫 又三郎氏を探し当て、かつての貴重な証言を多く聞き出すことが出来た。
木村本によると、宮本常一が取材した頃の左近家は、今の夕月橋の上流左岸辺りにあったそうだ。
上の写真は先日夕月橋上から撮影したもので、上流左岸ということは写真右手の辺りに左近家があったものらしい。
木村氏は又三郎氏の案内で滝畑霊園にある熊太翁の墓を掃苔し、「天中院松厳昇鶴居士」の戒名が彫られた墓があることを著書に記している。
木村本の書きぶりからすると、熊太翁単独の墓碑があったように思われるが、現在は左近家の累代墓として改葬されたらしく、平成27年に建てられた新しい墓碑になっていた。
横の墓標右端に木村氏が記している戒名が刻まれていて、熊太翁は昭和18年の末まで存命であったことが判る。
戦前の90歳と言えば、かなりの長命と言えるだろう。
現在の滝畑霊園は、村がダムで沈む際に墓碑だけを避難させて集めたところで、土葬も多かったらしいが、遺骸は全て水底に眠っている。
熊太翁の過ごした家も其の亡骸も今では深く暗い湖水の底、そんなどこか不気味な滝畑ゆえに、怪談にも事欠かない地域だが、生憎昼間にしか行ったことがないので、首無しライダー氏にも超高速の老婆にも出くわしたことはない。
ただ、気味の悪い事件と言えば、主婦と象印の元副社長が殺害されて、遺体がダム近くに遺棄されたという事件は記憶に新しいが、調べてみるともう12年も前のことであった。
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