抜き書き『禅骨の人々』
- 2014/04/17
- 23:14
公田先生は、明治七年(一八七四年)十月三日出雲市古志町に生まれられたので、今年の十月には満八十八歳になられる。この高齢の公田先生の眼は、先生より二十九歳も若い私の眼よりも、はるかに健やかである。また、その眼は幼な子の其れのように清らかで澄んでいる。そこに老人的な濁りがない。しかも、その眼光は、はなはだ強く且つ定まっている。ひそかに悚然とすることしばしばである。(4頁)
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公田先生は、青年時代から今日に至るまで、ひたすらに学び続けてこられたのである。先生は、どうしても自分の職業を書かなくてはならぬ時は、今でも「学生」と書かれるということを、酒井杏之助氏から聞いたことがあるが、「真の学生」こそは、先生の一貫した生活態度であったのかもしれない。
「わたしは漢学者じゃありませんよ」とハッキリ私に言われたことがあった。また「私は、本当は、禅僧になりたかったのですが、南隠老師が亡くなられてからは、師事する師家に行き会わなかったので、こんなことになってしまったのです」とも言われた。(6頁)
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あの浩瀚な『易経講話』(全五巻)の刊行が完了した時、公田先生は笑って、「明徳出版社があんなことを言い出さなければ、わたくしは安泰でございますのに」と私に言われた。また、『荘子内篇講話』が出版された後にお訪ねした時、この出版の事に私の話が触れると、先生は「あれは児戯に等しいものです」と言われた。また曾て『国訳漢文大成』(全八十八巻の中の三十一巻は、実際は公田先生の訳註である。)の事に関連して、「あれは大したものではありませんよ」と言われた。これらの言葉は、高い高い所を見つめて、ひたすらに歩いておられる公田先生の底知れぬ謙虚さから、おのずと出てくる言葉である、と私は解している。
その反面、公田先生は『至道無難禅師集』の編著や敦煌出土本の『六祖壇経』や『荷澤神會禅師語録』の校訂については、何度も、「あれはいい仕事でした」と言われた。
こういう所からも、先生の生活また学問の態度が、おのずから窺がわれるのである。(10頁)
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公田先生は一宗一派また一つの教学に囚われるということなく、限りなく高い人間形成をめざして、どこまでも誠実に、真っ正直に、ひたすらに、真の“学”の道を歩み続けてこられた方であると思われる。先生は、十七、八歳の時、すでに『新約聖書』も通読されたとのことである。
「それは単なる好奇心からでしたが・・・」と言われてはいるが。
ある時、「臨済宗のことを悪く言う曹洞宗の人は、本当には曹洞宗のことも解っていないのでしょう。曹洞宗のことを悪く言う臨済宗の人は本当には臨済宗のことも解っていないのでしょう。また、佛教のことを悪く言うキリスト教の人は、本当にはキリスト教も解っていないのではないでしょうか。キリスト教のことを悪く言う佛教者は、本当には佛教のことも解っていないのではないでしょうか。こんなことを考えておりますが・・・」と言われたことがある。
どこまでも深く徹底的に宗教の根源を究明しようとされる公田先生の立場からは、このような言葉は当然に出てくる筈であると考えられる。(12頁)
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公田先生は、どなたが頼まれても、『論語』は講じられない。
「孔子という人は複雑で、何度『論語』を読んでも孔子のイメージが胸に浮かんで来ません、それで『論語』を講ずることはできません。それに比べると『孟子』のほうはハッキリしております」という意味のことを、あるとき言われたが、同様の理由で『荘子』は講じても『老子』は講じられない。
公田先生は『論語』を講じられないが、しかし、たまたま『論語』を読んでいると、その中の言葉と一しょになって、公田先生の面影が浮かんで来ることがある。これは具体的な公田先生という方の言行・風貌を通して孔子や顔回を知るということであろうかと思われる。あるいは『論語』の中の言葉が如実に公田先生の人柄や考え方を形容している、と言っていいのかもしれない。(15頁)
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今年の一月、朝日文化賞を贈られた時、来訪の森本記者に語られた言葉の中で、「私の一生は失敗の一生でした。私は田舎者で、無器用で、世渡りの才とてなく、禅僧にもなれず、何の役にも立たず、八十余年、ただグズグズと生きてきただけです。“われは可もなく不可もなし”そう言える偉い人になることだけを夢みて。しかし、それは叶わぬでしょう。そして間もなく終るでしょう」という公田先生の言葉は、まことに味わい深い。(18頁)
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「儒教の色々な本の中で、先生が最も愛読されたのは何でしょうか」という私の問に答えて、公田先生は、「論語です」と言われたが、言葉をついで、「日本の人々は、孔子をすき透った人のように見ておりますが、孔子という人は、そうではなくて、大層複雑な人のようです。そうじゃないでしょうか」と言われ、さらに、「ある支那の留学生が日本へ来て、瀬戸内海の景色を見、大層それを称賛したが、この海の色が濁っていたら、もっと好いでしょうな、と言ったという話があります。日本人が山紫水明を喜ぶのとは、大分違います。――― 支那のものは、いくら読んでも、日本の人々には本当には理解できないのではないでしょうか」と言われた。これは、儒書・漢籍と八十年ものあいだ親しみ取り組んで来られた公田先生から聞く言葉である。私は、先生の此の言葉を聞きながら、心の底に溜息をするような思いを覚えた。
しかし、このように深く、外国のものを読み学ぶことの困難さを味わい知っておられればこそ、かえって、それを良く理解しておられるとも言えるのであろう。(22頁)
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公田先生は文字通りに万巻の書を読んでおられる。しかし先生からは「生き字引き」という感じは全然受けない。「生きた経典」と言ってはどうだろうか。それはとにかくとして、古い聖賢の言葉の多くが、先生の身心において具体化されているのは事実である。これは大変なことであると思われる。先生の著述における仕事も偉大である。しかし、それを遥かに越えて、私は人間形成の努力の一つの極限を、公田先生において見るという感を抱いている。それは、“世”に対する“人間の勝利”を意味している。また、“聖賢”という言葉が、単なる架空の理想ではないということを、公田先生の存在によって、私は知った、と言ってもよい。
こうは言っても、私自身は、勿論、依然として、遥かに遠いこちらの低い所に立っている者であることを忘れてはいない。実は、公田先生のような方の事を思う時は、自らの低劣をいよいよ深く自覚するのである。そして、それなればこそ、このように高い所・深い所にある存在を仰ぎ見また望み見る喜びは、一層意味深いことである、と私には考えられる。(26頁)
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今年の八月、公田先生をお訪ねした時、私は先生編著の『至道無難禅師集』の中のことについて幾つかの質問をした。その中に中国宋代の大儒・程氏のことがあった。たまたま私が、「程氏兄弟はどちらのほうが偉いのですか」と、たずねると、「そりゃ、兄の程明道のほうが偉いですよ、人間としては。弟の程伊川には、著述などは多いですが」と先生は言われた。
「しかし、この程明道と蘇東坡とは意見が合わず、司馬光(保守派)と王安石(革新派)とも相対立し、そんなことで、司馬光の政策が行われず、遂に北宋の滅亡を将来することとなりました。これを思うと、善人と悪人との争いよりも、善人と善人との争いのほうが、もっと悲惨な感じがします。これは、今の時代でも同じではないでしょうか」というような意味のことを、先生は述べられた。(40頁)
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程明道と蘇東坡、司馬光と王安石との間の確執対立のことについて話された後で、「自分の考えばかりを主張せず、自分の気持だけに囚われず、相手の人の心持になって考えれば、大抵の事は解かるものですが」という意味のことを公田先生は言われた。公田先生のあの寛容と謙虚の徳も、このようにして築かれて来たものかと思われたが、誰でも言いそうな此の一語も、公田先生の口から洩れる時、それは強く重く私の心に響くのであった。(41頁)
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公田先生は慈雲尊者に深い尊敬の念を抱いておられ、『十善法語』やその他の法語のことを、よく話しておられたが、今年の五月十九日にお訪ねしたとき、たまたま『慈雲尊者全集』の話が出ると、「私もできたら買い求めたいと思っております」と言われた。余命いくばくもないと強く感じておられる先生の口から、このような言葉を聞いて私は、ここでも無限精進の先生の姿の一端に触れる思いがした。(51頁)
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公田先生は最晩年の数年間に、『大智度論』『法苑珠林』『大般若経』『宝積経』などという大部の経典を次から次へと読破され、その後さらに『阿含部』の経典を通読された。まことに驚嘆すべき読書力である。そして今春には、かねてからの私たちの切望に答えて、『敦煌出土・荷澤神會禅師語録』『敦煌出土・六祖壇経』『興聖寺本・六祖壇経』の和訳を完了され、その原稿を出版社に渡された。これは先生の訳業の最後の原稿となってしまった。
公田先生の机や座右には、いつも幾冊かの書籍が置かれてあったが、私がお邪魔するようになった昭和二十九年の十二月以来、常にと言ってもよろしかろう、先生の机の上には「妙満寺版」の黄巻帙入りの部厚な『妙法蓮華経』が置かれてあった。その訳は遂にお訊ねしなかったが、忘れがたく私の瞼の中に残っている。(52頁)
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公田先生の書斎の床の間の向かって左のほうの書箱の上に、いつも「慈照院法雲妙喜大姉」と紙に書かれた位牌がおかれてあった。改めてうかがったこともないが、多分、亡き令夫人の位牌であろう。仏壇もなく紙の位牌、それが少しも奇異の感を与えない。こういう所にも、公田先生の真骨頂の一端が現われているのではないかと私には思われる。(55頁)
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「先生は、あれから大蔵経は・・・。いまは何を読んでいらっしゃいますか」とお聞きすると、
「近ごろは阿含経を読んでいます。阿含経はおもしろくないです。大乗佛教なり権大乗を知っている目で見ると。おもしろくないですが、とにかくあれが根本ですから読もうと思って努めております。方等部からはおもしろいですね。方等部は大集経と大宝積経とを読みました。その中で、お釈迦さまのお世話をなさり付き添っている仁王さま、その人がお釈迦さまの最初からの次第を説いている、そのお経がおもしろいですね。大宝積経の中の一部分です。とにかく“無所得”ということに徹底しなければだめですね。最初から“無所得”永久に“無所得”で通っているわけでしょう。それに徹底する、いつ徹底するか、本人自身むろんわからない、いつのまにか、そうなるんです。きょう徹底したということが、もしもあれば、それはまだ徹底していないわけですな。
無盡意菩薩とか虚空蔵菩薩、そういう菩薩はお釈迦さま以前から発心している大菩薩なんだけれども、まだ菩薩ですね、佛さまはどこにござるか、それはしばらくおいて、お釈迦さま以前に発心した菩薩も、まだうようよしてござる。わたしは、さかさまに大乗佛教から先に読みだした。ほんとうは小乗佛教から読むべきでしょうが。わたしは従来、日本には小乗佛教がないので、ほんとうの大乗佛教はわからないのだ、なんていうことを常に考えているのです。だいぶん読んでいったが、まだ生きている間に・・・。おもしろいものですからね、読んでいますと。―― わたしなどはお悟りはだめで、ただ知見で読むんですね。しかし、大抵の人が知見解じゃありませんか。お経というのは、しかし、おもしろいしかけだなと思いますよ。華厳経はまあ龍樹菩薩が書いたと見ていいですが、大般若経というのは、だれが書いたか、いま分かっておるかもしれませんけれども・・・。
法華経のしかけなどもおもしろうございますね。あれはお釈迦さまが霊鷲山でお説きになったということになっているが、あのお経のできたのは、歴史上はお釈迦さまの時から何百年か後でございますね。」(82頁)
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公田先生が、逝去に遠くない或る日、「結局、漢文はよく解りません」と言われた。この先生の一語における含蓄が、どのようなものであるかは、私ごとき浅学な者の容易にうかがい知ることのできる所ではないが、言わば七十余年の間、その心を精一にして、ひたすらに此の道を学び続けて来られた公田先生の最晩年の此の一語には尋常ならざる重さが感ぜられる。それは、別のある日に言われた「なんでも専門のこと以外はだめです」という先生の一語と共に、私の終生忘れかねる言葉となるであろう。また幾たびも「日本語はまことによい言葉です」と言われるのを聞いた。これは一面において語学の天才であられたと考えられる公田先生の晩年の言葉の一つである。(87頁)
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