『荘子講話』推薦文より
- 2014/04/18
- 18:14
私は公田先生に相見の礼を修めたことはない。しかし私は、先生が善く書を読まれることを知っている。数年前、先生の訳による『資治通鑑』を、ただ一巻だけであるけれども、ある必要から、精細に読んだことがあった。そして全く一つの誤読をも見いださなかった。
以後、私はひそかに先生に推服している。
以上のようなことをいうのは、大先輩である先生に対し失礼であるとする人があるかも知れない。しかし私があえて、このことをいうのは、理を折し史を叙べる点において、私の推服する先輩はたくさんいられる。しかし書を読んで正確なること先生の如きは、必ずしも、あまねく人々のもつ能力ではないからである。
善く書を読むとは、文章の外面の韻律、内面の心理を、細かに味わい分けつつ読むことである。いいかえれば、すべての文章につき、その内在する詩的要素を重視しつつ読むことである。漢籍を読むにはそれが大切である。何となれば中国の文献は、みな、それぞれに詩的要素を内在するからである。
そういう風に漢籍を読むことを、江戸時代の学者は、常に修練し、一つの伝統を形成していたと思われる。明治以降のいわゆる「東洋学」は、他の面ではいろいろ進歩を示したが、この伝統的な能力は、かえって低下したとみとめられる。それを保持する稀有の何人かの中の一人で、先生はある。そのことは、このたびの『荘子講話』にも示されている。
(吉川幸次郎)
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