根本通明
- 2014/04/20
- 19:20
公田先生は、秋田出身の大儒・根本通明(1822~1906)の晩年に、十年間にわたって漢学の講義を受けている。
文政5年(1822年)に出羽国刈羽野村(現秋田県大仙市刈和野)に生まれた根本周助(のち通明)は、藩校明徳館に学び、戊辰戦争の際には奥羽列藩の中で孤立して窮地に陥った藩を救って勤皇を貫き、藩最大の軍功を挙げる。
上京すると、その学識の高さで名をとどろかせ、当時の斯界の大家であった安井息軒(1799~1876)や芳野金陵(1803~1878)らを驚かせた。
明治11年、清国の大使・何如璋に見謁して、経学について筆談をもって論じ、感嘆させる。
明治19年には、明治天皇に御進講を行い、周易を講義して以降寵遇を受けた。
明治29年には、帝国大学文科大学(翌年6月に東京帝国大学となる)教授となり、32年には秋田県人で初となる博士号を受ける。
幕末明治における周易の第一人者であった通明の易説は、非常に独創的なもので、易経を変化・革命の書と見る従来の説を否定し、易は革命を説いておらず、万世一系を説いたものであり、我が国こそが易経の理想に最も忠実な国体なのだという。
また、筮法においては五十五策を用いた三十六変筮を主張し、この二つが、通明の最も有名な易説となっている。
文科大学新任式における挨拶は、自らの学問に対する自信で満ち溢れている。
「東洋の漢学は、この根本通明と共に滅ぶことになるだろう。 したがって汝等は、私の眼の黒いうちに十分謹んで講義を聴くがよい」
中絶した『周易象義弁正』の他に『老子講義』『詩経講義』など多くの著書があり、書誌学の谷沢永一氏は、現代の注解書よりも通明の本の方が遥かに本質を捉えていて分かり易いと言っている。
昭和61年に、地元秋田で通明の顕彰事業をはじめる話が持ち上がり、羽嶽研究会が発足したものの、すでに通明を直接知る人も研究者も皆無で、何一つとして資料がなく、当時の中央公民館館長に関係資料の掘り起こしについて相談を持ちかけたところ、昭和31年より「50回忌に偉業を偲ぶ」の副題で『易学研究』に連載された「根本羽嶽論」(加賀谷憲一著)の存在が浮上し、紀元書房より複写を取り寄せ、この資料をもとにして羽嶽研究会は活動をスタートしたという。
こういう話を聞くと、どんな些細なことでも公の文献に残しておくことの大事を痛感させられる。
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