熊崎健翁先生
- 2013/10/28
- 18:33
若き日の熊崎健翁先生
熊崎健翁先生(1881~1961)は、岐阜県恵那郡三郷村の生まれ、本名を健一郎といい(還暦に戸籍上でも熊崎健翁と改名)、熊崎家は宇多天皇の後裔で、先祖が城主であった愛媛県の熊崎城(別名鳥付城)よりとった姓という。
小学校の教員を経て、1901年に中京新聞社に入社、以降三重成功新聞、伊勢新聞、大阪新報、時事新報などを記者として渡り歩き、1903年に有名な熊崎式速記を発明した。
現在、熊崎式速記術を用いる人が居るのかどうか、速記術に暗い私の知るところではないが、今でも速記学校で用いられている教科書では日本の速記術の歴史の項でその名が記載されているらしい。
その後、新聞業界を引退、1928年には大森に五聖閣を設立して、運命学の方面で大々的に活躍するようになる。
特に、熊崎式姓名学は我が国姓名学のパイオニア的存在であり、今でも熊崎健翁は姓名判断の代名詞的存在となっている。
誰かさんを意識しまくった熊崎先生の立筮
姓名判断のイメージが強い熊崎健翁先生であるが、高島流易学の直系でもあって、高島嘉右衛門の甥で二世呑象を名乗った高島徳右衛門氏(1869~1933)を推戴した社団法人高島易学会(1931年創立)は、理事長である熊崎先生が実質的な運営の中心であった。
新聞記者時代に、易者という非科学的な輩の正体を暴いてやろうと易を学び始めたのだが、これが面白くてミイラ取りがミイラになってしまい、いつの間にか運命学にのめり込むことになったという。
戦前の五聖閣本部
五聖閣は運命学の総本山として華々しい活動をしており、戦前に五聖閣で活躍していた顔ぶれを見ても、石川雅章、加藤大岳、中村文聰、永杜鷹一といった錚々たる顔ぶれである。
熊崎健翁著として世に出た書物は、これら超優秀な講師陣の手になるものが多く、『易占の神秘』は加藤先生の執筆であり、『姓名の哲理』は永杜鷹一先生、『相学維新』は中村文聰先生による。
遠い姻戚に当たる加藤大岳先生は、熊崎先生が熱海市天神山の別荘で長逝された際、『易学研究』に寄せた「熊崎健翁先生を悼む」と題する追悼文の中で、“先生の非凡な長所には、私などの蹤いてゆけないものが多い”、“先生の超人的な面ばかりを見ている人たちに、その人間性の一面を示してやりたい”などと書かれているが、運命学の事業化に見せた熊崎先生の超人的な手腕は、まさに空前絶後であったといえよう。
つまらぬニセ高島などとは、同列に扱うことは憚られるというもの。
塑像の出来にご満悦の熊崎先生
五聖閣の全盛期は意外に短く、熊崎先生が「ゝ心道」(ちゅしんどう)という宗教団体を設立したのを契機に、一斉に主要メンバーが離反し、加藤先生もこの時に五聖閣を去っている。
晩年は、熱海の別荘で過ごされたが、蒼流庵主人の東洋医学の師は昭和十年代に熱海で熊崎先生から直接、周易から姓名学、人相学、四柱推命まで運命学の全般を伝授されており、私は熊崎先生の孫弟子に当たる。
現在の五聖閣
現在でも大森の五聖閣は存続中であるが、かつての面影はなく、敷地の大半は貸しているのか「サミット」というスーパーが占めている。
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