金岳陽
- 2014/04/27
- 22:01
金家累代之墓(秋田市・麟勝院)
根本通明(1822~1906)は、金岳陽(1758~1813)の学統である。
金岳陽は、宝暦8年に生まれ、名を秀実・秀順、字を応元・天祐、通称を宇平治、岳陽の他に、玉振・寛斎とも号した。
山本北山(1752~1812)に学び、秋田藩に仕えて財用奉行などを歴任、藩校明徳館でおしえ、祭酒(学頭)となり、文化10年に56歳で世を去った。
墓所は、秋田駅から西へ徒歩20分ほどの麟勝院にあるが、昭和5年に改葬され、「金家累代之墓」となっている。
最後のご子孫が他界されて数十年、現在は残念ながら無縁墓となってしまったそうだ。
通明は、後年、門人に
「昔、秋田藩儒に金岳陽という学校の教授が居った。
藩主の師範を務めたが、その学問・見識は山本北山を超える実力であった。
四十余歳で亡くなったが、しかし生涯藩内から出ることが無かったため、その学問はもちろん、姓名すら天下に知られないままになってしまった。
一方これに対して北山は、短期間しか秋田藩に仕えたことがないのに、江戸に長く住んでいたため、その名も著書も多くの人々の目に触れ世の中に伝わった。
それに比べ、秋田の人々でさえ知らない者がある岳陽のことは、大変残念なことである」
と語ったという。
金岳陽は、大変優れた学者だったに違いない。
通明の学んだ藩校・明徳館は、第九代藩主・佐竹義和(1775~1815)が、時の老中松平定信の教学振興の施政に従い、京都から来藩した村瀬栲亭(1744~1819)の協力で設立したもので、朱子学者であった初代祭酒・中山菁莪(1728~1805)の学風で開学され、また江戸から招かれた儒者・山本北山の強い影響により、『孝経』が重んじられた(岳陽の唯一の刊本は天保5年に刊行された『孝経義』である)。
明徳館址碑(秋田市中通一丁目4)
寛政2年(1790)の校舎落成当初は校名はなく、単に学館と称していたが、寛政5年(1793)に校名を明道館と定め、 文化8年(1811)に第二代祭酒の岳陽が、校名を明徳館と改めたのである。
秋田市の闐信寺には、通明の12歳年上の先輩で、岳陽易学の継承者である平元謹斎(1810~1876)の墓所があるという話なので、機会があれば一度訪れてみたいと思っている。
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