高松貝陵は、序卦を用いた占法家の代名詞的存在と言っていい。
というよりも、序卦占法を全面に押し出しているのが、高松貝陵くらいのものだろう。
刊本のほとんどは天保から嘉永年間にかけて出ており、白蛾や随貞などよりはずっと新しい時代の占法家であるが、その事績はほとんど判っていない。
近藤龍雄先生は、「惜しい哉貝陵は幕末に生れ国内騒然、其の易説は幕府に不利なるによりて其著書は焼かれ、且又忽ちにして明治維新の新政となり、世を挙げて文明開化の欧化時代と変じ、其の当時堕落しきつた易占は識者から顧みられなくなつたので、貝陵の易説と易術は世の中から消え去ろうとした。然し幸い彼の著作は希少乍ら十余種今に見ることが出来る。貝陵易は一言で評すれば、日本の諸易説とは殆ど全く異り恐くは古今独歩の異例をなすでしよう」としている。
高松貝陵は、本姓を源、名は芳孫・辰栄と言い、易蘇堂とも号した。
『日本漢文学大事典』では生没年不詳としているが、染井霊園に墓碑(明治6年建立)が現存しており、「文久元辛酉八月十七日壽八十而帰幽」と刻まれていることから、1782年に生まれ、 1861年に没したことが判る。
しかし、貝陵が如何なる易統に連なる人かはよく判らず、著作中に散見する門人の多くも無名の人ばかりだ。
近藤先生によると、貝陵易の特徴は大きく分けて3つあり、
①易の用語解釈における新機軸
②易によって勤皇思想を鼓吹
③序卦を用いた序卦断法を提唱
が挙げられるという。
序卦断法は、得卦の前卦と後卦とを見て占断する方式で、貝陵易では得卦の本卦を幹卦と呼び、変卦を支卦と称し、幹卦の前卦を受卦と呼び、後卦を之卦と称している。
卦読みは普通の観方と少し違い、幹卦は易の本旨に従って其の占を明にし、支卦は人情を探求するを専とするという。
また、真勢流と違い、筮前の審事を一切問わない点も特徴的である。
筮法は、爻卦を出していく点で中筮法と似たようなものであるが、手順は同じではない。
高松貝陵の筮法は、筮竹は五十本であるが、一本を太極として取り、もう一本を小極として取る。
残り四十八本の筮竹を三つに分かち、左から天地人の三分とし、先ず真ん中の握った人策を取って六払いする。
残数を掛肋器にかけ、次に天策を取り、小極の一本を加えて同じく六払いする。
此の残数と前の残策とを加えて小成八卦が作られ、これで一爻を画し、六営して大成卦が出来る。
これを循環図と名付けた図によって判断し、左右に四つの卦を並べて占考するというのだが、この見方はどうも難しいものらしく、私にはよく理解出来かねる。
スポンサーサイト