皆川淇園~京都易儒墓参録~
- 2014/05/08
- 18:10
皆川弘道先生墓表(阿弥陀寺・上京区寺町今出川上ル鶴山町14)
皆川淇園(1735~1807)は、江戸時代中後期の儒者であり、当時の京都を代表する大文化人でもある。
享保19年に京都で生まれ、名を愿、字を伯恭、通称は文蔵、別号として有斐斎などを用い、明経先生・弘道先生と諡された。
父の皆川成慶は、骨董商とも一説には東福門院御殿医ともいう。
大井雪軒、三宅牧羊、伊藤錦里(1710~1772) らに学び、50歳の頃、開物学と称する独自の経学を創始した他、語学書や注釈書を多く著した。
平戸藩主の松浦静山(1760~1841)をはじめ、亀山藩、膳所藩などの藩主に賓師として招かれた。
京都に家塾を開き、門人は3000人を超えたという。
詩文に優れ、柴野栗山(1736~1807)や赤松滄洲(1721~1801)、清田儋叟(1719~1785)と三白社という詩社を起こす。
書画にも巧みで、書は王羲之を範とし、画は円山応挙(1733~1795)や望月玉仙(1692~1755)に学んでおり、師の応挙に劣らずという程の高い評価を受けている。
晩年の文化3年(1806年)には、様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いたが、翌年他界し、京都の阿弥陀寺に葬られた。
易経に特に詳しく、
『易学階梯』
『易学開物』
『易経文字部類集』
『易原』
『蓍卜考誤辨正』
『周易繋辞伝図釈』
『周易六十四卦名開物』
などを著したが、淇園は医学分野にも深い関わりがあり、安永2年(1773)に刊行された『医案類語』十二巻は、淇園による医学用語辞典である。
満足な教育を受けておらず、弟子の原南陽(1752~1820)をして「文字ノ無イ人」と言わしめた賀川玄悦(1700~1777)が、医書中の名文として知られる『産論』四巻を纏め得たのは、ひとえに淇園の力によったもので、『産論』刊行の明和2年(1765)には玄悦65歳、淇園31歳、玄悦は淇園に会うごとにその手をとって泣いて感謝したという。
淇園は、賀川済世館の顧問格となり、子啓・子全・子永をはじめ多くの医生が淇園塾に入門し、玄悦・子啓・子全三代の墓碑銘は、淇園が撰文かつ自筆している。
また、淇園の娘は賀川家五代有恒の妻となった。
他にも淇園に学んだ医家は少なくなく、山脇東洋(1706~1762)の孫に当たる山脇道作(1757~1834)や「最後の儒医」と言われる百々俊徳(1774~1839)、上方蘭方医の祖・小石元俊(1743-1808)とその子・元瑞(1784~1849)なども淇園の門人である。
淇園の墓所である京都市上京区の阿弥陀寺には、織田信長と嫡男・信忠の墓所や、森蘭丸・坊丸・力丸兄弟の墓所があり、ハカマイラーを超えて観光客に人気のようだ。
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