春日潜庵~京都易儒墓参録~
- 2014/05/17
- 12:46
春日潜庵墓(法蔵寺・右京区鳴滝泉谷町19)
春日潜庵(1811~1878)は、文化8年に筑前守春日仲恭の子として京都に生まれ、名は仲好・仲襄、字は子賛、通称は直之助といい、潜庵と号した。
父と同じく久我家諸大夫となり、通明・建通父子に仕えて讃岐守に任ぜられた。
五十君南山、鈴木遺音(1783~1846)、富松万山に師事し、のち池田草庵(1813~1878)と親交を持ち、陽明学を修めた。
安岡正篤先生(1898~1983)は、影響を受けた日本の儒者の一人に潜庵の名を挙げ、安岡先生の著書の端々に潜庵の名が見える。
幕末には、梁川星巌(1789~1858)、西郷隆盛(1828~1877)らと謀り、勤王派として活躍、安政の大獄では永押込に処せられたが、文久2(1862)年に赦免される。
維新後の明治元年には奈良県知事に任命されたが、事に座し官仕を罷め、以後は学を講じた。
易書に
『読易抄』
がある。
春日潜庵の墓所がある右京区の法蔵寺は、名工・尾形乾山(1663~1743)が最初に窯を開いた場所でもある。
光琳・乾山の尾形兄弟に目をかけていた二条綱平(1672~1732)が、京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えた為、ここに窯を開いたもので、ここが都の北西(乾)の方角に当たることから「乾山」と号したのである。
この地で、乾山は兄・光琳との合作を世に出し、乾山が二条丁子屋町(中京区)に移るまで、制作は13年に及んだ。
その後、近衛家煕(1667~1736)と親交のあった百拙元養(1668~1749)が、享保16年(1731)に予楽院の出資を得、桑原空洞(1673~1744)の旧宅を譲り受けて黄檗宗の寺としたのが、現在の法蔵寺である。
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