三輪執斎~京都易儒墓参録~
- 2014/05/18
- 10:10
三輪執斎墓(両足院/京都市東山区)
三輪執斎(1669~1744)は、寛文9年に医師・沢村自三の次男として京都に生まれ、名は希賢、通称は善蔵といい、執斎・神山子・躬耕廬・光斎・弄月・明倫堂と号した。
早くに両親と死別し、父の従弟で白木屋(江戸三大呉服店の一つで、かつ、日本の百貨店の先駆的存在の一つ。京都の材木商からスタートした)創業者・初代大村彦太郎(1636~1689)に引き取られ、真野氏の養子となるが、のち本姓の三輪に復す。
貞享3年(1686)に江戸に下り、翌年、山崎闇斎の高弟・佐藤直方(1650~1719)より、朱子学を学び、のち中江藤樹(1608~1648)の著作から陽明学に傾倒する。
元禄3年(1690)直方の推挙により上野前橋藩の儒官となるが、同8年に致仕し、江戸に退居。
同十年、帰京し、陽明学を講究、丹波篠山藩主・松平信庸(1666~1717)に仕えて京都に18年勤続。
享保元年(1716)から元文2年(1737)、病のため帰京するまで江戸に在住し、下谷に明倫堂を開いて多くの門人を教授し、陽明学の伝播普及に努めた。
傍ら、中院通茂(1631~1710)から歌学を学び、通茂の没後は中院通躬(1668~1740)の指導を受け、また河瀬菅雄(1647~1725)にも学んだ。
明倫堂は、門人の川田雄琴(1684~1760)が継いだ。
易書に
『易解』
『易手記』
『周易進講』
がある。
墓所は、東山区にある建仁寺の塔頭・両足院にある。
スポンサーサイト