佐久間象山~京都易儒墓参録~
- 2014/05/19
- 18:22
佐久間象山遭難之碑(京都市中京区木屋町御池上ル)
佐久間象山(1811~1864)は、文化8年に、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として生まれ、名は国忠・啓・大星、字は子廸・子明、通称は啓之助・修理といい、象山と号した。
妻・順子は勝海舟(1823~1899)の妹である。
“象山”の号の読みについて、「しょうざん」と「ぞうざん」の二つの説があるが、高橋宏氏の「佐久間象山雅号呼称の決め手」(信州大学教養部紀要29収載)によると、雅号の由来は、地元松代の山・象山(ぞうざん)に因ったものであるが、弘化2年(1845年)に象山自身が松代本誓寺へ奉納した文書において「後の人我が名を呼ぶなばまさに知るべし」として、反切法を用いて「しょうざん」と呼ぶように書き残しており、由来は「ぞうざん」でも号の読みは「しょうざん」とするのが正しいようである。
天保4年(1833)に江戸に出て、佐藤一斎(1772~1859)に学び、山田方谷(1805~1877)と共に「二傑」と称された。
天保10年(1839)、江戸神田お玉ヶ池に開塾し、同13年、藩主真田幸貫(1791~1852)が海防掛老中に任ぜられると、象山を顧問として海外事情を研究させた。
また、江川担庵(1801~1855)に西洋兵学・砲術を学び、黒川良安(1817~1890)に蘭学を学ぶ。
象山の著『礮卦』は、砲術を易の卦になぞらえ、易理を以て砲術を明らかにしようとしたもの。
嘉永3年(1850)、江戸深川の藩邸で砲術を教授し、勝海舟(1823~1899)、吉田松陰(1830~1859)、橋本左内(1834~1859)、坂本龍馬(1836~1867)らを教えた。
嘉永7年(1854)、松陰の渡米密航失敗の事件に連座し、一旦国元に帰った。
元治元年(1864)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、当時の京都は尊皇攘夷派の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった。
同年7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。
享年54であった。
現在、木屋町の高瀬川畔には、「佐久間象山遭難之碑」が建っている。
ところで、易占家にとって、佐久間象山と言えば、まっさきに沢天夬の卦が浮かぶはずである。
上洛の際、象山の身を案じた弟子の再三の懇願により、象山が筮して得た卦爻は、沢天夬の上爻であった。
上洛の運勢が凶であることを知りながら、今は内外多難の国事に挺身すべき時であるとして、死地に赴き、易占の通りに生涯を閉じたのであるが、果たして凶を避けることを第一義とする易占の効用として、これは如何なものなのだろうかという気はする。
佐久間象山墓所を示す妙心寺内の石標
象山の墓所は、長野県の蓮乗寺(未訪)と、京都は妙心寺の塔頭・大法院にあるが、大法院は春秋の特別公開日以外は、一般の参拝を受け付けておらず、こちらも未訪であるため、入口の石標のみ御紹介することにする。
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