木村蒹葭堂~大阪易儒墓参録~
- 2014/05/20
- 18:11
木村蒹葭堂墓(大応寺・天王寺区餌差町3-15)
木村蒹葭堂(1736~1802)は、元文元年に大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長男として生まれ、名は初め鵠、のち孔恭、字は初め千里、のち世肅、通称は吉右衛門・多吉郎・太吉といい、巽斎・遜斎・蒹葭堂と号した。
蒹葭とは芦のことであり、邸内の井戸より出た古芦根にちなんで「蒹葭堂」と称して室号としたもの。
本草学を津島桂庵(1701~1755)、小野蘭山に、絵を海眼淨光(1722~1786)、池大雅(1723~1776)に、篆刻を高芙蓉(1722~1784)に、詩文を片山北海(1723~1790)に学んだ。
片山北海を盟主に大坂にて結成された漢詩サロン・混沌詩社の前身となる蒹葭堂会を主催し、定例会を8年続けた。
蒹葭堂は、当時の大阪を代表する文化人として知られ、本草学、文学、物産学に通じ、黄檗禅に精通し、出版に携わり、オランダ語を得意とし、ラテン語を解し、書画や煎茶、篆刻を嗜むなど極めて博学多才であり、また書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本・器物などの収集家としても著名で、松浦静山(1760~1841)は、『甲子夜話』において「其所貯スル物ヲ見ルニ書画草木石玉鳥魚ニ至ル迄和漢ノ品物皆アリ(中略)、又庚戌ノ書牘ニ云フ蔵書既ニ二万巻」と記している。
蒹葭堂の没後、蔵書は官命により幕府に献納されて、昌平坂学問所に納められ、現在、内閣文庫に引き継がれているが、一部は散逸したらしい。
寛政2年(1790)、55歳のときに割当て外の酒を醸造した罪に問われて(この事件は、今日では、寛政の改革の中で大坂商人の勢力を抑えようとした幕府側の弾圧と考えられている)、一時伊勢長島藩主・増山正賢(1754~1819)のもとに身を寄せたが、のち帰阪して文房具を商った。
易書に
『易乾鑿度校』
『周易鄭氏注校』
『周易口訣義校』
がある。
墓所は天王寺区餌差町の大応寺にあり、墓碑は保護の為、アクリルケースで覆われている。
木村蒹葭堂邸跡(大阪市西区北堀江)
大阪市西区北堀江にある大阪市立中央図書館の南東角には、1960年に建てられた「木村兼葭堂邸跡」の碑がある。
実際の兼葭堂の邸跡は約120m西にあったが、江戸時代の大阪を代表する文化人であった木村蒹葭堂邸の顕彰碑は、図書館の一隅に建てることこそふさわしいとして、図書館に隣接する現在地に建てられた。
蒹葭堂邸は当時の一大文化サロンであり、蒹葭堂と交流した人々の顔ぶれは、篠崎三島、高芙蓉、木内石亭、中井竹山、頼山陽、清水六兵衛、売茶翁、上田秋成、本居宣長、佐藤一斎、皆川淇園、高山彦九郎、 海保青陵、 司馬江漢、大槻玄沢、小野蘭山、 青木木米、松浦静山、大田南畝、最上徳内、蠣崎波響、慈雲飲光、与謝蕪村、円山応挙、田能村竹田、谷文晁、浦上玉堂、伊藤若冲などなど、ビッグネーム揃いで驚かされる。
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