河野恕斎~大阪易儒墓参録~
- 2014/05/21
- 17:08
河野恕斎墓(光明寺・天王寺区下寺町1丁目3−73)
河野恕斎(1743~1779)は、寛保3年に岡白駒(1692~1767)の長男として生まれ、名は子龍、字は伯潜、通称は忠右衛門といい、恕斎・鶴皐・南浜・鹿門・南浜漁人と号した。
岡氏は旧姓が河野であったので、白駒は恕斎をその旧姓に復させた。
早熟で、四、五歳で読み書きを覚え、十歳で詩文を作り神童と称された。
父と同じく古注学からスタートするが、後に朱子学に転向する。
博学で、経史百家から稗官小説までに博通し、混沌詩社に参加、詩・書にも堪能であった。
肥前蓮池藩に仕え、大阪藩邸監となり、吏務に長じ藩政に功績が大であったが、37歳で没した。
易書に
『周易王注補正』
がある。
光明寺には、江戸中期の根付師で絵師でもあった吉村周山(1700~1773)の墓碑もある。
周山は、性川充信に学んだ絵師でもあるが、檜の古材に彫刻を施した上に彩色を加えた独特の作風で知られており、昔から人気があって偽物も多いらしい。
海外のオークションではかなり高値で取引されているようだ。
上田令吉氏の『根付の研究』には、
「余、昭和十七年一月同寺に参拝し一々墓碑を掃苔せしも見当たらず、又更に同寺に就き尋ねしも不明なり、蓋し明治四十四年頃には同墓碑ありしも其の後無縁墓として整理せられたるものにあらざるか」
とあるが、その後再発見され、無縁墓群の最前列に安置されている。
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