懐徳堂旧址碑~懐徳堂史跡あれこれ~
- 2014/05/26
- 18:34
懐徳堂旧址碑(日本生命保険ビル南壁面・大阪市中央区今橋)
懐徳堂は、江戸時代後期に大坂の商人たちが設立した学問所で、富永仲基(1715~1746)や山片蟠桃(1748~1821)といった際立って独創的な学者を多数輩出した。
すでに、懐徳堂ゆかりの学者として、天文学の麻田剛立(1734~1799)や真勢中州門の保科嘉一郎(1765~1819)といった人を蒼流庵随想ではご紹介して来た。
懐徳堂は、享保9年(1724)、のちに「懐徳堂五同志」と称される大坂の豪商たちが出資し、三宅石庵(1665~1730)を学主に迎えて船場の尼ヶ崎町一丁目(現在の大阪市中央区今橋四丁目)で発足し、享保11年(1726)には、徳川吉宗から公認されて官許学問所となり、学校敷地を拝領した。
明治2年(1869年)、明治政府によって旧幕府から受けていた諸役免除などの特権を廃止され、いったん廃校となるが、明治44年に大阪朝日新聞の主筆で優れた漢学者でもあった西村天囚(1865~1924)の発議により「懐徳堂師儒公祭」が挙行され、懐徳堂記念会が設立される。
大正2年、財団法人としての認可を受け、同5年には府有地を無償で借り受けて、重建懐徳堂が建立され、活動を開始したが、昭和20年の大阪大空襲により焼失し、戦後、事務所を再建するも、学問所として再起することは無く、昭和28年に敷地は大阪府へ返還され、重建懐徳堂は消滅した。
蔵書などは大阪大学へ移管し、現在は同大が懐徳堂を継承している形をとっており(現在でも春秋2回、大阪大学の企画で懐徳堂講座を行っている)、財団法人懐徳堂記念会も存続している(運営には同大の関係者が多数関わっているが、法的には独立した財団法人となっている)。
大正7年には、かつての懐徳堂の跡地に、「懐徳堂旧址碑」と題した顕彰碑が建立された(地下鉄御堂筋線淀屋橋駅からすぐ近く)。
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