中井一族墓所~懐徳堂史跡あれこれ~
- 2014/05/27
- 18:26
誓願寺門前の石標(大阪市中央区上本町西4丁)
ハカマイルの醍醐味にも色々あって、墓碑のひび割れ具合、苔や地衣類の生え方などに恰も盆栽の如き小宇宙を感じるのも中々乙なものだが、とりわけ儒者のハカマイルにおいては、たとえ易経に深い関わりを持たない先学であっても、墓碑銘を鑑賞する楽しみがある場合も多い。
中井家といえば、代々懐徳堂の学主を務めた儒の名家であり、大阪の誓願寺(井原西鶴の墓があることで有名)には、一族の墓がある。
中井家は、日本易学史上において、それほど重要な位置を占めている訳ではないが、易経由来の名を号した人物が少なくない。
中井甃庵墓
二代目学主・中井甃庵(1693~1758)の“甃庵”は、言うまでもなく水風井の六四「井甃无咎」に由来するもの。
甃庵の父で播磨国竜野藩の儒医であった中井玄端(1645~1720)については、赤松滄洲(1721~1801)の墓碑と一緒に以前ご紹介した。
中井履軒墓
甃庵の次男で、懐徳堂学派中、最大の業績を残したとされる中井履軒(1732~1817)の“履軒”は、天沢履に因んだもので、別号である「幽人」も天沢履九二の「幽人貞吉」より採られたもの。
名目上は五代学主であるが、その経営にはあまり積極的でなく、別に私塾水哉館を創設し、そちらに力を入れていたようだ。
経学だけでなく、天文学や解剖学などの西洋科学にも通じ、麻田剛立(1734~1799)と交流し、山片蟠桃(1748~1821)に大きな影響を与えた。
中井碩果墓
第五代教授の中井碩果(1771~1840)の“碩果”は、山地剥上九の「碩果不食」より。
四代目学主・中井竹山(1730~1804)の第七子で、竹山の死去に伴い、34歳で懐徳堂第五代教授(学主は履軒)となったが、懐徳堂の学風の保持に努めた為、学問上の発展はさして無かったとされる。
しかし、理財に長じていた為、懐徳堂の財政立て直しに貢献した。
大塩平八郎(1793~1837)は、幼時に碩果の教えを受けている。
並河寒泉墓
懐徳堂最後の教授・並河寒泉(1797~1879)の“寒泉”は、水風井九五の「井冽寒泉食」が其の由来となっている。
中井一族による易書としては、
『易断』中井竹山著
『易雕題略』中井履軒著
『周易逢原』(〃)
『河図類棊』(〃)
『蕉園首書周易』中井蕉園著
などがある。
以下、上記以外の中井一族の目ぼしい墓碑を挙げる。
誓願寺は、経年劣化した墓碑の修復も順次行われていて好感が持てるが、修復した墓碑からは、いぶし銀的風情と盆栽的小宇宙が失われるため、ハカマイラーとしては複雑なところだ。
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