神光寺~懐徳堂史跡あれこれ~
- 2014/05/28
- 17:22
神光寺門前の石標(八尾市服部川)
八尾の服部川にある神光寺には、懐徳堂の初代学主三宅石庵(1665~1730)や石庵の次男で三代学主の三宅春楼(1712~1782)、懐徳堂を創立した五同志の内、長崎黙淵(生没年未詳)と中村良斎(1674~1732)、平野・含翠堂の創設に尽力した土橋友直(1685~1730)、井上赤水の墓所がある。
含翠堂は、大坂南部の平野郷の有力者たちによって、享保2年(1717)に創設された郷学(ごうがく)の一つで、初期には「老松堂」と称したが、三宅石庵が「含翠堂」と命名した。
含翠堂は藩校や私塾などとは異なり、同志らが定期的に資金を積み立てて、その利息によって運営され、学問的には特定の学統によらず、三輪執斎(1669~1744)・伊藤東涯(1670~1736)のほか、石庵や五井持軒(1641~1721) らが招かれて講義を開いている。
神光寺の墓域は広い上に入り組んでいるうえ、案内板なども無く、しかもそれぞれの墓所は分散している為、案内がないと特定が難しいかもしれない。
三宅石庵墓
三宅石庵(1665~1730)は、寛文5年(1665)に京都に生まれ、名は正名、字は実父、通称は新次郎、俳号を泉石といい、石庵・萬年と号した。
はじめ、浅見絅斎(1652~1712)から朱子学を学んだのち、陽明学に傾倒する。
江戸や讃岐を経て、元禄13年(1701)頃に来坂し、尼崎町二丁目で私塾を開き、享保9年(1724)に五同志らに迎えられ、懐徳堂初代学主に就任した。
長崎黙淵(左側)と中村良斎(右側)
長崎黙淵は、船橋屋四郎右衛門と称し、毛綿問屋業を営むかたわら、石庵の私塾に学んだ。
中村良斎は、三星屋武右衛門と称し、五同志の最長老で、貸家業を営んでいた。
神光寺は、紅葉がとても綺麗な場所で、私は毎年秋に参拝することが多い。
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