富永仲基~懐徳堂史跡あれこれ~
- 2014/05/30
- 18:16
富永仲基招魂碣(西照寺・大阪市天王寺区下寺町2丁目)
戦前を代表する東洋学者であった内藤湖南(1866~1934)に「大阪の町人學者富永仲基」と題した講演録(ちくま学芸文庫『先哲の学問 』収載)がある。
「この富永仲基といふ人は、私のひどく崇拝して居る一人です。(中略)眞に大阪で生まれて、而も大阪の町人の家に生まれて、さうして日本で第一流の天才と云つてよい人は富永仲基であると思ひます。(中略)仁齋でも徂徠でも皆相當えらい人でありますが、日本人が學問を研究するに、論理的基礎の上に研究の方法を組立てるといふことをしたのは、富永仲基一人と言つても宜しい位であります。その點に我々非常に敬服するのであります。(中略)日本でも支那の事を研究した人があり、日本の事を研究した人もありますけれども、斯ういふ風にその自分の研究の方法に論理的基礎を置いた人がないのであります。それはこの富永が初めて置いたと言つて宜しいのであります。私はその點に於て、大阪が生み出したといふより日本が生み出した天才として、これは立派な第一流の人であると言つてよいと思ふのであります。私が曩に懷徳堂で斯ういふことを申しました時、日本で天才の學者といふものを五人擧げれば、必ず富永がその一人にはいるといふことを申しました」
富永仲基のおおよそは、この湖南の講演に見事に纏め尽くされているように思うので、そちらをお読み頂くべきだが、ここでも簡単にご紹介しておく。
仲基(1715~1746)は、懐徳堂五同志の一人富永芳春(道明寺屋吉左衞門)の三男として正徳5年(1715)に生まれ、字は子仲、通称は道明寺屋三郎兵衞といい、南關、藍關、謙斎と号した。
懐徳堂の初代学主三宅石庵(1665~1730)に学ぶ。
元文3年(1738)、24歳の時、『翁の文』を著し、延亭2年(1745)には、仏教の批判的研究書である『出定後語』を刊行するも、翌年32歳の若さで夭折した(結核ではないかと言われている)。
仲基の独創的学説の中核を成すのは、「加上の説」で、これは歴史的に経典を分析すると、新しい経典は、より古い経典の教説に異なった教説を加上しながら発展してきた、というものであり、いわゆる大乗非仏説に繋がる今日では常識的な観方なのだが、これをほとんど独力で発見したところに仲基の偉大さがある。
その後、仲基の学説は、本居宣長(1730~1801)に見出され、それを受けて平田篤胤(1776~1843)にも影響を与えたが、明治に入ると内藤湖南によって再発見されるまで、すっかり忘れ去られた存在となっていた。
富永一族の墓所は、天王寺区の西照寺内に現存しているが、仲基の墓碑は早くに失われたようで、仲基に関するものは明治になってから建立された供養塔のみである。
西照寺の松屋町筋を隔てた向かい側には、紀藤先生の旧易学会館がある。
富永家墓所
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