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霞洲墓碑の銘文
榊原霞洲で検索してたどり着きました。
黄檗円応寺の「霞洲先生之墓」の銘文は『江戸黄檗雑記』に記録があります。春秋社からでている木村得玄禅師の校注本で知りました。ご参考まで
黄檗円応寺の「霞洲先生之墓」の銘文は『江戸黄檗雑記』に記録があります。春秋社からでている木村得玄禅師の校注本で知りました。ご参考まで
Re: 霞洲墓碑の銘文
がらん様
コメント有難う御座います。
合葬前の墓碑を見たかったですね。
コメント有難う御座います。
合葬前の墓碑を見たかったですね。
No title
こんにちは、こちらに書き込んだこともすっかり忘れておりましたが、まただどりつきました。その後黄檗の寺めぐりをしておりましたら青山の海藏寺に霞洲先生の墓石を発見しました。『江戸黄檗雑記』の銘文と同文なので圓應寺のものを移転したものでしょうか。住持に聞きそびれました。先生の引く、『墓碑史蹟研究』の右後方の墓石に似てると思います。リンク先に現在のようすと拓本画像を貼ってあります
Re: No title
がらん様
ご連絡有難う御座います。
合葬されたはずが、まだ残ってたんですね。
しかも、違うお寺に。
篁洲のも見つかれば良かったのですが・・・(無縁塔などにまぎれてないでしょうか)
ちょうど先週、篁洲撰文の梵鐘を見に行ってきました(道が細すぎて車で入れず、またの機会にリベンジです)。
> こんにちは、こちらに書き込んだこともすっかり忘れておりましたが、まただどりつきました。その後黄檗の寺めぐりをしておりましたら青山の海藏寺に霞洲先生の墓石を発見しました。『江戸黄檗雑記』の銘文と同文なので圓應寺のものを移転したものでしょうか。住持に聞きそびれました。先生の引く、『墓碑史蹟研究』の右後方の墓石に似てると思います。リンク先に現在のようすと拓本画像を貼ってあります
ご連絡有難う御座います。
合葬されたはずが、まだ残ってたんですね。
しかも、違うお寺に。
篁洲のも見つかれば良かったのですが・・・(無縁塔などにまぎれてないでしょうか)
ちょうど先週、篁洲撰文の梵鐘を見に行ってきました(道が細すぎて車で入れず、またの機会にリベンジです)。
> こんにちは、こちらに書き込んだこともすっかり忘れておりましたが、まただどりつきました。その後黄檗の寺めぐりをしておりましたら青山の海藏寺に霞洲先生の墓石を発見しました。『江戸黄檗雑記』の銘文と同文なので圓應寺のものを移転したものでしょうか。住持に聞きそびれました。先生の引く、『墓碑史蹟研究』の右後方の墓石に似てると思います。リンク先に現在のようすと拓本画像を貼ってあります
榊原篁洲
榊原篁洲の名に引かれまして参上しました。
>何故、東京なのか未だ不明であるが、木下順庵の門に居た頃の何がしかの縁であるのか、それとも紀州藩を致仕して没したのは江戸であったか、もしくは江戸詰めの際に他界したものか。
篁洲は貞享四年(1687年)、木下順庵の推挙を受けて紀州徳川家の儒官となります。後の徳川吉宗三歳のときです。その才幹でやがて紀州徳川家を明律研究のメッカとします。吉宗は幼少期からこの学者の薫陶を受けていたと考えられます。吉宗が将軍就任後、徳川日本の法治国家化を目指し、その一環として明律研究を支援したりするのはこの篁洲の影響は落とせないでしょう。参勤交代の実態はいろいろあったでしょうが、制度的建前からすれば、大名の妻子は定府を定められていましたから、篁洲が若君たちのチューターを兼ねていたなら、篁洲も在江戸での勤務となるはずです。
徳川期の大名家の若君たちは実は皆、江戸っ子(都会人)である。これが今のところの私の仮説で、そこから推論してみました。
>何故、東京なのか未だ不明であるが、木下順庵の門に居た頃の何がしかの縁であるのか、それとも紀州藩を致仕して没したのは江戸であったか、もしくは江戸詰めの際に他界したものか。
篁洲は貞享四年(1687年)、木下順庵の推挙を受けて紀州徳川家の儒官となります。後の徳川吉宗三歳のときです。その才幹でやがて紀州徳川家を明律研究のメッカとします。吉宗は幼少期からこの学者の薫陶を受けていたと考えられます。吉宗が将軍就任後、徳川日本の法治国家化を目指し、その一環として明律研究を支援したりするのはこの篁洲の影響は落とせないでしょう。参勤交代の実態はいろいろあったでしょうが、制度的建前からすれば、大名の妻子は定府を定められていましたから、篁洲が若君たちのチューターを兼ねていたなら、篁洲も在江戸での勤務となるはずです。
徳川期の大名家の若君たちは実は皆、江戸っ子(都会人)である。これが今のところの私の仮説で、そこから推論してみました。
Re: 榊原篁洲
renqingさま
コメント有難う御座います。
なるほど、紀州藩若君たちのチューターで、貧乏旗本の三男坊・徳田新之助の師ですか。
それなら、辻褄が合いますね。
ご教示頂き感謝です。
篁洲は唯一の泉州出の易儒で不思議と愛着があります。
コメント有難う御座います。
なるほど、紀州藩若君たちのチューターで、貧乏旗本の三男坊・徳田新之助の師ですか。
それなら、辻褄が合いますね。
ご教示頂き感謝です。
篁洲は唯一の泉州出の易儒で不思議と愛着があります。
篁洲の扁額
京都の向日市にある400年前からある旧旅籠富永屋の関係者です。まもなく解体の予定ですが、座敷に、篁洲逸人の署名と「字子卿號篁洲」の落款のある「千客萬来」の扁額があります。
この作者が榊原篁洲ではないかと調べていますが、確定されていません。コメントをいただけるとありがたいです。
https://www.facebook.com/133108310170137/posts/1312927798854843?sfns=mo
この作者が榊原篁洲ではないかと調べていますが、確定されていません。コメントをいただけるとありがたいです。
https://www.facebook.com/133108310170137/posts/1312927798854843?sfns=mo